
"余力"なんて持っていられないような、広い所・知らない所へ
※ 1月3日にXで呟いた内容をきっかけに膨らませたものです
いきなり引用で恐縮ですが、一色登希彦さん版の『日本沈没』13巻に、このような台詞が登場します。
「自信がないから」「恥をかくとイヤだから」「傷つくのがこわいから」って…余力の及ぶところまでしか行かない。…でも、結局人間は自分の為の"意味"を見つける事には必死になる。そこに"余力"を注ぐ。そうするとね…その"余力"が、内側に向かって腐るんですよ。
自分が"大事だ"と思っているものにココロ囚われて、それを失うことを極度に恐れたり、"大事だ"と思っているものを誰かに軽んじられているように感じて、殺意に近い見境のなさで攻撃に出たり…
(中略)
腐らない為には、"余力"なんて持っていられないような広い所・知らない所にいつでも居ようとするしかない。それは…痛くてつらくてこわい事なのだろうけど…でも、僕は…もう、どうあっても曝されてみるといいんです。
実際の作品では、この台詞の吹き出しの背景に、ネット上に投稿されたものをイメージしていると思われる多数の罵詈雑言が書き込まれており、極めて印象的なページになっています。是非一度作品を手にとってみてください。
自分の実感としても、この台詞に書かれていることは的を射ていると感じます。
職場の同僚で、諸事情(オブラート…)あって少ししか仕事をアサインされていない人に限って、その仕事を「自分の仕事」として守り抜くことに必死で、少しでもやり方に意見をすると凄まじい反撃を受ける…というのを何度か見たことがあります。
自分自身の過去のSNS投稿を見ても、暇なときほどおかしなことを考えていたな、と感じることがあります。妙に意識の高い投稿をしたり、急に変わったセミナーに参加してみたり。
この台詞で、”大事だ”という言葉にダブルコーテーションがついているところに意味を感じます。
人生を構成する要素は多岐に渡ります。仕事、友人、家族、地域社会、お金、持ち物…その中で、何が自分にとって本当に”大事”なのかという問いは、自分自身の価値観を問う深い命題です。
自分が本当に”大事”にしたいものは、ひょっとすると余裕のない、極限状態に置かれてこそ初めて気づくのかもしれません。非常事態にこそ本性が出る、という言葉もあります。逆に”余力”がある状態では、本来”大事”にすべきでないものに「ココロ囚われて」、間違った判断をしてしまうのかもしれません。
中には、”余力”がある状態であっても、自分自身が何を”大事”にすべきかを冷静に見極め、限りあるリソースを”大事”なものに投入できる人もいます。強いリーダーシップを発揮し人々を成功に導くような人はそれができるのでしょう。
『日本沈没』の主人公がどのような人であるかは、是非作品を通しで読んでみて判断いただきたいと思いますが(けっこう難しいかも…)、僕のような意思の弱い一般人は、あえて"余力"を持っていられないような状況に自分を追い込むことで初めて、腐ることなく、本当に”大事な”ことにリソースを投入できるようになるのでしょう。
自分の場合、まず複数回経験した転職が「広い所・知らない所へ自分を曝す」よい機会になっていたように思います。同じ職場で長期間働く選択をしていても、それはそれで楽しかったと思いますが、いまの自分と同じ考え方をしていたとは思えません。
そもそも普段から、"余力"を残して出力するのは苦手で、狙うのは70点ではなくて100点、なんなら相手に感動を与える意味で120点を狙わないと気がすまないタイプではあります。
にも関わらず、自分にとって本当に”大事な”ことは何かと問われると、まだこれといった答えは出てきません。まだまだ時間を要するのですかね。
一方、僕も40代後半になり、”余力”の見積もりを見誤ることが増えてきました。以前ならこなせた仕事量が体力的にこなせなくなったり、疲れが取れなかったりすることも多いです。まだまだいけると思って”余力”を注入したらエネルギー枯渇でぶっ倒れた、ではシャレにならないですね…。
2025年が始まりました。新年早々、駄文にお付き合いいただきありがとうございます。変化の激しい世の中、「広い所・知らない所」が次々と現れるような感覚さえ覚えます。余力の見積もりに注意しつつ、今年もチャレンジしていきたいと思います。