物を売る人に宿る心の美しさ~日本講演新聞

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noteでは特に人気が高く、本にもなっている社説をご紹介します。

 お役所の人と仕事をしていてたまに残念な気持ちになることがある。講演を依頼されるのだが、その際、本の販売が認められないのだ。

 理由は、主催が公的機関であり場所が公共施設だからだ。物を売る行為が営利目的と思われている。さらに突っ込んで聞くと、お金を直接やり取りする行為が公共施設内では好ましくないという。

 士農工商時代の感覚が今も意識の片隅に残っているような気がする。最近の歴史研究によると江戸時代の身分制度は不適切な解釈だったとして、今「士農工商」という言葉は教科書から抹消されているが、お金を直接さわる商行為に対してお役人はかなり抵抗があるようだ。

 時代劇や昔のドラマにはよく卑しい商人が登場していた。モミ手をしながらペコペコ頭を下げ、うわべだけの笑顔をつくって、時にはウソ八百の説明をして安価な商品を高く売りつける商人は、確かにいたかもしれない。

 真の利益や企業の発展は倫理・道徳の上にもたらされるものだ。このところ大企業の不祥事が問題になっているが、成功しているように見えても倫理・道徳に背く企業活動には必ず天罰が下る。「金は天下のまわりもの」と昔からいうように、「天」からしっかり見られているのだ。

 「利益は、物を売る行為の目的ではなく結果。目的は商品を手にした人を幸せにすることだ。商いはお客様のためにある」

 昭和29年、商業界ゼミナールに初めて参加した西端行雄(にしばた・ゆきお)氏は、この「商人道」の教えに心底感動し、帰ってきて妻の春枝さんに叫んだ。「春枝、僕らが選んだこの道に間違いはなかった」と。

 戦前、行雄氏は国民学校の教師をしていた。終戦後、GHQの統制で教科書のあちこちに墨を塗らなければならなかった。そんなことを児童にさせた自分が許せず、昭和20年の秋、辞職した。

 行雄氏は商人になった。一軒一軒訪ねて物を売る。最初は「夫にそんなことはさせられない」と、春枝さんが1人で行商を始めたが、「女房だけ働かせるとは何事か!」と父親に叱られ、行雄氏も行商に出た。ある時は高野豆腐を、ある時は軍足を、ある時は生そうめんを売った。

 生そうめんはなかなか売れなかった。ある時、大阪・飛田の遊郭に飛び込んだ。

 出てきた白首の娼妓(しょうぎ)に「これ、乾燥してないのでずるずるに溶けるんです」と説明したら、「アホ、商売人はほんまのこと言うたらあかんのや。あんた、正直やから全部買(こ)うたるわ」と、仲間の娼妓を呼んで売りさばいてくれた。「あの体験は一生忘れられない」と、行雄氏は泣きながら春枝さんに語ったそうだ。

 彼の正直な商いはその後も崩れることなく、それがかえって信頼を生み、やがて一坪半の「ハトヤ」という店を大阪・天満橋駅近くに出すまでになった。

 夫婦で始めたその店が、やがて㈱ニチイとなり、創業から24年後の昭和48年には年商1000億円、従業員数1万3000人もの大手小売店に成長していく。

 草創期は迷いもあったが、前述した商業界ゼミナールに出合ってからは、行雄氏の正直さと「商人道」がぴったり合わさり、紆余曲折しながらも、行雄氏が目指す「お客様のための商い」は成長し続けた。

 行雄氏の死去から6年後、ニチイは「マイカル」と屋号を変え、日本初の大型商業施設を全国に展開していった。しかしバブル経済崩壊後はその煽りを受け、2001年に経営破綻した。

 事業を引き継いだイオンの岡田卓也会長はマイカルの社員にこう語ったそうだ。「イオンの経営理念にならなくてもいい。ニチイの創業精神に戻してやってくれればよし」と。

 先般、春枝さんにお会いした。噂通り美しい女性だった。とても95歳には見えなかった。あの気品は一体どこから出てくるのだろう。きっと「西端行雄という実直な男と36年間共に生きてきた」という誇りからではないかと思う。

(日本講演新聞 2718号(2017/11/13)魂の編集長 水谷もりひと社説より)

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