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「精神の考古学」のあれこれ


大筋の大切な部分は毎日のように抜粋させてもらっているが、それ以外にもトピック的に、自分と似たような面白いエピソードが数々あり、今回はそれを挙げてみようと思う。


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筆者の体験するゾクチェンへの道のりは、
やはり私が通ってきた所と同じだった。

筆者の六道輪廻の一つ一つになりきる修行は、私よりカラダを張っていると思うのだが、

六道輪廻とは、神、阿修羅、人間、餓鬼、畜生、地獄である。

この六つを見てみると、中沢氏ほどではないが、確かに全てを通過している。

中でも、蔑み、卑下、身体への苦痛と抑圧、生理機能の制限があった「地獄」が一番長かった。生きることも死ぬことも出来ない地獄。(この時は、六道輪廻は知らず、ましてやその「地獄」だ、などとは思ってもいなかった。振り返ると地獄だったのではと思うのだが…)

死ぬことは地獄でも恐怖でも何でもなく天国とさえ思えるようになれば、六道輪廻はクリアするのではないか。(天国だと思って自決することはまた意味が異なり、こちらは自分という他者を殺める行為となる。)

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P168に出てくる、立ったまま両手を頭の上で合掌し、踵をつけて膝を曲げる「金剛座式」は、5年前整体の徒手療法を習っている時に体験している。体の何処も動かしてはならず、筋膜のみ動かすことは可能というルール。

30人くらいの自分と同じ門下生がいたが、皆でこの姿勢を1時間ぶっ続けでポーズしていた。
全員でしていると何処か宗教ちっくだったが、「金剛座式」という名前がついていたとは今まで知らなかった。

20分くらいで、腕や脚、カラダ全身が苦痛に苛まれ、それを経過すると麻痺して来る。四肢は切断された自分のものではない、自分は木になったのだと思わなければ、1時間は無理だ。が、殆ど皆クリアしていた。身体を本気で治したいと志願した普通を逸脱した者の集まりだった。翌日から一週間くらいカラダのあちこちが痛かったのを覚えている。

痛みと麻痺、筋硬結との闘いなので、考えることも、外部のものを入力することもできず、無心になれる「金剛座式」でした。

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P146〜の、筆者の中沢氏とゾクチェンの修行を共にしていたパッサンの死などで、氏の心はすっかり落ち着きをなくしまい、ゾクチェンの正行を始めるのは無理だと感じた中沢氏は瞑想小屋に籠って、心の調律を行うのだが、このところで、外界からの影響によって心が乱れた場合は、調律が必要だと私も感じた、そのとき、パッサンの死の悲しみも伴い、この時の中沢氏の悲しみが私に入ってきた。

いつものことだが、私自身が感覚した感情が消えようとするとき(自分のものは直ぐになくなるのだが)、他者のものが入ってくる。でも今回はそんなに長くはなかった。

このパッサンの死の直前に、中沢氏はパッサンの身体から物質的元素の解体が始まっていると感じていた。

また、心臓の鼓動がなくなったあと、ケツン先生はパッサンの体から、意識が外に出て行くのを誘導していた。

他者の死には私も幾度も直面しているが、今思うと、物質元素の解体されて行く感覚は、早い人で3ヶ月くらい前からそれを感覚していた。一週間前には明らかにわかるようになる。

また、ケツン先生は意識がまだ体に残っていると感覚したのだと思う。

心臓の鼓動が止まる時、もう既に意識(意識というよりバイオフォトン的なもの)がない方もいる。逆のパッサンのような方もいて、直ぐにそれは抜けて行くのだが、ケツン先生のように誘導をする行為もあるのだと知った。


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この「精神の考古学」は、余すことなく、自分と照らし合わせることが出来る。ゾクチェンは完全に精神世界の話であり、物質世界と乖離されていて、誰も認識出来ずにいるが、精神世界が人間の本質であり、自然な働きだと私は思う。

「妄想のうちに死を迎えるのが早いか、真実を見届けるのが早いか。あなたの人生はいま競争に入ったのですよ」by ケツン先生 P145




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