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アースダイバー 神社編/中沢新一 -読む前に-




昨晩、「精霊の王」を集中して読んでいた。

「精霊の王」だけでなく本を読む時には自分の記憶(記録)の中の意識と、文章に書かれている客体の意識やその周辺の集合意識、筆者のその文章に込まれている意識を見極めるため、結構集中して読んでいる。

頭の記憶に残したくない(記憶力がない)せいもあるのか、情景をイメージするというより、そこにある意識を拾いながら確認していく癖がついているのです。

こちらでも取り上げたように「精霊の王」には、嘗ては人間にいた精霊のことが書かれている。

読み進めると、聖徳太子に見込まれた、自分は秦の始皇帝の生まれ変わりと云う、川に流れて来た「壺」から、生まれたばかりの姿で出て来た「秦河勝」。
才能のある河勝に、聖徳太子は猿楽の芸能「翁」を行わせた。「翁」は初めて河勝によって舞われた等が書かれていた。

・象徴思考こそは禅竹の異能

存在の異なる位相の間に関係性の構造の同一性(ホモロジー)を発見することで隠されている意味の関連を発見する技術。

「精霊の王」第二章奇跡の壺 P51

「壺中童子」の下りは世界にもあり、エリウス・カエサルの「母親の胞衣(えな)」、「うつぼ船(空舟)」=「翁」と繋がっていくのだが、

どれもブランコのように地に足がつかないで揺れている状態という意味をもつ。秦の始皇帝を読んでいた時も、地でも天でもない、天空にいて地上を見ているのが王という表現をされていた。

それらが精霊とつながっていく。

本書の舞台は諏訪への精霊探索紀行、ミシャグジ信仰のルーツを追う内容へと移っていく。

伊那谷のサソコ村にある「社宮司(シャクジ)」には、石神も祀られているが、女性器の象徴でもある扇に胞衣が掛けられていた…

また段々と気分が悪くなって来たので、この辺りで「精霊の王」の内容は割愛するが、昨日その辺りを読んでいたら同じように嘔気までいかない鬱蒼としたものが入って来た。

私に入ってくる(感覚する)これらは、元々人間にいた精霊ではないかと思う。神というより人間に近い。
人間ほどの欲望は持っておらず、鬱蒼としているのは、今では人間の役に立つことはできない、人間のためになることはできない喪失感である。

しかし、人間に入りたいという欲も持っている。これが、後から気持ち悪さとなっていった。

卑猥なミシャグジの像もそれを増幅させているので、気分新たに「アースダイバー神社編」を読もうと思うのだが、しくった、こちらも神だった。。

神社は自然の神と人間を神格化させた、神混合の場所である。

特に後者しかない神社は波動が低いため、
私は体調が悪くなってしまう。

出雲に神が集まる神無月以外は皆この山に集まるという、ピラミッド山、「皆上神社」は何度行っても酷い頭痛と気だるさが私を襲う。

皆上神社にある出口王仁三郎の石碑

「あぁ、だるい」と歩いて行くと、この石碑の近くに、「伊勢神宮」のようにカゴメ紋が並んでいる。
もう少し頑張って歩み進め、一番奥の社の裏に出ると、突然開けた空間となり周りの山々が見渡せるため気分も晴れる。

因みに伊勢神宮は特に私の身に異変は起きず、神聖なものと、多くの参拝者により、エネルギーが相殺されている気がする。

内宮にお参りの際には、きっと誰もが必ず外宮の「豊受大神宮」に足を運んでいると思われるが、この豊受の神気は男神である。女性性も感じられなくもないが、、。

今まで参拝した中で、最高峰の神気はやはり、何と言っても戸隠神社である。
この神気に勝てるものは世の中にギザのピラミッドしかないと私は思う。破格です!

神社に参拝し、お願い事をしている、そこのあなた、神社は願掛けに行くところではありません。

誰もが勘違いしていると思うのですが、神社参拝とは、三次元上に何層の神の次元が差し込んであるか、その数を数えに行く所で、それが神社の醍醐味です。

壺中童子、胎生学的雰囲気 「戸隠神社」
九頭竜門からの眺望 「戸隠神社」

戸隠は、自分の住まいからは結構遠いので、その中間にある、諏訪によく参拝しています。

諏訪大社四社はどこも神気が異なりますが、人間のバイオフォトンのように同一のものが内在されてはいます。四社のうち、前宮が一番心地よく、眺めも開けていて好きです。

イチョウの絨毯 秋の諏訪大社「前宮」
前宮に流れる小川
前宮境内から眺める八ヶ岳


こう、神社を考えていても気分不快にはならず、気持ちは逆に開けてくるので、やはり昨日のモノは人間に近い精霊だったと思われる。

「精霊の王」と「アースダイバー神社編」を並行して読んでいきたいと思います。

どちらも、蛇が出て来たらまた気持ち悪くなってしまうかも。。きっと有り得る。。





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