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内容のない日記(虚無か空虚か)
様々な分野の詳細な知識、そこに乗る真理。
何を以って知ったといい、何を知って満足出来るのか。
人間が何かを知った所で何も知らないに等しい。
どうして何も知らないのに平然と生きていられるのか。人間は夢を描き幻想を見続ける事で安心して生きられる生命体なのだ。少なくとも現在は。
自分というものを知ると、知った分だけ他を知らなければ不安になる。
他の全てなど到底知ることは出来ない。
全てを知ることができない他と他者。
自他の違いへの不安、何も知らないという不安とが襲う。
真理とてこれ以上何を知り得ると言うのか。僅かを知ったとて知らないに等しいのならば、知る必要がない。
「僅かを知ったとて、知らないに等しい。ならば、知る必要がない」
これがいま来ていて、考える気もなくなってしまった。今の私の大きな命題である。とてもこれが大きくひっかかっている。
生きてる意味などない。
やりたい事も満たしたいと思う事もない。
知識を得て、夢を追い、欲望を作り、満たす。
そんな意味のない連続は何が愉しいのか、私にはわからない。
ニヒリズムではないと思う。
ペシミズムは存在する。
ルサンチマンなど遠い過去のこと。
私に心理はない。
項を想うこともないのだ。
項に興味もない。
真理からなる、その真理の全てを知ることが出来たら平然と生きられる気がする。
今は真理も知りたいと思わない。
追求することが止まった。
それは全てを知ったということなのか?
全てを知ったという評価は誰の何が行うのか。
言葉に変換できることが知ったと言う事ではない。また言葉に変換できたから知っていると言う事でもない。(ん?同じこと言ってる?)
言葉など今となっては付加価値の付けられた記号としか思えない。
しかし言葉に出来なければ、知っているという評価を他者はしてはくれない。
これはやはりニヒリズムか?
いや、虚無とも空虚ともちがうが、種類的には同等。
虚無も幻想とわかっているが人間は人間を創った者に似るのだろう。
子は親に似る。
幻想は避けられないということだ。
この世は幻想で作られているならば、
幻想ではない此岸は別宇宙となる。
朝からずっと取り止めがない。
目的を探しているのでもない。
僅かな有ると無いを繰り返しているような感覚。
私は宇宙全ての記録、アカシックを見ることが出来る。地球と太陽系のアカシックはアンドロメダにあり、宇宙のアカシックは宇宙の外縁の膜にある。
私は全てを知ることができるが、
知っているわけではない。
無知の無知がきっと99.999…%以上を占めているだろう。
到底知り得ないのならば、
考えることも無駄だと思ってしまったのだ。
きっとこれは虚無や空虚とは違うが
似ている性質のものだろう。
一過性のものかもしれない。
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