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『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ ⑧ -真空を求めても避けてもいけない-


 サルトルも「極限の思考」だが、本書『重力と恩寵』も極限の思考を具体化したものだ。

この極限の思考を「理解」できる者は少なからずとも存在はすると思う。
しかし、サラッと読んでサルトルの思想、ヴェイユの思想を暗記するように理解しても、体現している者はほぼ皆無であり、その存在は極めて稀だろう。

七 対象なしに欲する

5 だれかを失う。または不在者が想像上または偽りの存在となったことに、われわれは苦しむ。だが、そのだれかにいだく願望は想像上のものではない。自己の内奥におりていくと、そこには想像上のものではない願望がある。飢えるとき、さまざまな食べものを想像するが、飢えそのものは実在するこの飢えを捉えるのだ

 実在との接触を失う。これが悪であり、悲哀である。この喪失をひきおこす状況はさまざまだ。窮乏、苦痛など。癒やされるには、欲求そのものを実在に到達するための仲介とみなせばよい。死者の現前は想像にすぎなくとも、不在はまごうかたなき実在だ。この不在は、以後、死者の現われでる様態となる。

6 真空を求めてはいけない。
 …真空を避けるのもいけない。

7 真空は至高の充溢である。だが、人間にこれを知る権利はない。その証拠に、キリストでさえ、一瞬にせよ、このことを全く知らなかった。
…その他の部分が低劣のやり方で知ったなら、もはや真空は存在しないだろうから。

P49

 上手く書かれている。「自分の内奥に降りていく」「(自分の内奥の)願望や飢えを捉える」「悲哀という悪」、「死者は不在」「不在が現前する実在」その通りだ。

この妄が真空を埋める、あって欲しいと願う欲望なのだ。

 真空の恩寵、神の恩寵など、そう成ってみなければそんなものはないに等しく、そうなるまでの苦を取り除く企てと試行錯誤の連続。

何も誰も助けてなどくれやしない。
誰かに助けを求められるものでもなかった。

 私の真空の理解は、仏教の「空」から始まった。それも何を頼るでもない自身の思考の中でのみだった。

客観でも主観でもないもう一人の自分のような者が自身は〈真に「空」〉だと思っていた。
今までと脳内内圧の感覚や脳の感受が異なったからだ。面前するものがなければ、自分の思いなどはなく常に脳内は空っぽだ。

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天空の裏側

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