第十部 いかにして人は精神の考古学者になるか
35 アフリカ的段階の仏教
何故、地球の土地を、お金で買わなければ生活出来ないのか(最近では月の土地まで売買されている始末)と今まで何回か何となくそう思った時があった。何故登記が始まったのかと考えればそれは明確で、家系図を見ながら実家の土地が初めて私有地となった明治時代の登記録を見たときもそんなことをかんがえていた。
父の祖父が登記をしていた。曽祖父が明治〜大正に建てた米蔵がまだ実家に残っている…これは余談だ。
生産と所有は悪だ。お金以前の問題である。
と、ずっとそのように私も考えていた。
日本では弥生、明治が大きな歴史の分岐点だ。本書では「アフリカ的段階」と、この一冊を通じて原初知性としている。縄文はそれ以上に高度だったと思うのだが、縄文の文化はモデルとして一切出てこなかった。
仏教は専門性が高く、人間というものを真理に基づき、自然界、宇宙の理、その構造と現象、潜象界と顕象界まで隈なく研究されている、哲学書、科学書、心理学、神学でもあるが、
ブッダから時代を下ると、功績による称号の付与、法具や儀式によるエネルギー増幅、偶像崇拝があり、ゾクチェンの教えであっても本書で多くの矛盾を垣間見た。
教えられ、あめとムチを与えられ、幸福感をときに抱き、苦を乗り越える努力は、明らかに物質化である。それらがあるから様々な研究が進んだともいえる。
物質化が進み、「今」という時間を大切にしている現代では、利己でしか動くことは出来ない。表面上だけの利他、方便の膜で張られてるネットワーク。
尊いものは伝統なのか、専門性なのか、命なのか、神なのか、人間は真に尊いものを見出さなければならない。
エピローグ
ケツン先生の会話文、※「土地霊が育てた仏教が愛おしくてなりません。そこに育てられてきた精神が、愛おしくてなりません」
と、此処を読んでいるとき、土地を慈しむ愛情と憂いの感情の涙が私にリンクし始めた。
ケツン先生だった。
しばらくケツン先生と私は会話していた。
ケツン先生は高みを知っていたが、それは現在の世では、教えるに至るまでにはいかないと言っていた。私もケツン先生も地球の土地に対する愛情から来る、幾許かの憤りを実感していた。
今はまだケツン先生は生まれかわってはいないが、何十年かしたらまた地球に戻ってくると思います。
「精神の考古学」中沢新一著
-了