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信仰からの離脱


自身が信仰している大いなるもの、自身の能力より遥かに上回る、それによって包囲されている感覚や包まれている安心感を感じるものが神といえよう。

その感覚を認識しているのは自己にしかあらず、また集合意識の中にも存在はするが、決まっている、定まっているものではない。

自分自身でそれを明確に定めている現状があり、それに畏敬の念をいだき、またその大いなるものに近づきたいという意欲が信仰だと思われる。


これらはヒトの心理ではあるが、この全ては自身の幻想なのか、人間に於ける心理であり真理なのか。

心理であっても幻想であっても、兎に角、そこに何らかの力が蠢いている。大いなるもの、世の支配者、コミュニティなどの小さな規模の中に関しても、他と自己との関係の中で、押さえつけらている感覚、崇められている感覚、両方の主導権争いがある感覚を、私は敏感に感じ取り、その感覚の全てが苦しい故に、そこから、ここから、逃げ出したくなるのだ。

これが、この世、この宇宙全域には、隈なく存在し、この宇宙全域が此岸だと思えるのだった。

私にもこれまで、私を超えた存在が自分の中に存在していた。それを取り払った時(その存在を超えたこともあるし、その範囲内から抜け出したこともあった)、その自身が神の存在のように崇めていた、その存在が、悪魔に変容したものがある。

それを超えても、現れなかったとき(場合)もあり、悪魔が現れるか否かの差をここでは考えたい。

ヒトは日々の生活の中で、自身の心に悪を宿している。穢れた想い、卑しさ、欲望。その小さな悪魔を小出ししているうちは、神(悪魔)は現れることはない。

盲信している時も同じで、崇めている対象が、見えても見えなくても、他者、他人、他である場合、その対象を超えても、神(悪魔)は現れない。


それが自分の場合に限り現れるのだと、
今になって感じる。


ーー


自と他を介す、境、壁のようなものは全て、膜で覆われている。これが膜宇宙と呼ばれているものなのかは知らないが、物質には自と他を介すためのこの膜には、電子の軌道がある。

この宇宙には何層かに分けられるための膜がある。

私が感覚するのは4層だ。
層と層の間には膜がある。


1・2次元(一層目)と、この3次元の物質世界との間の膜が一つ目(二層目)、地球から見た太陽系と天の川銀河との膜が二つ目(三層目)。天の川銀河と基盤としての宇宙との境が三つ目(四層目)。
この宇宙と認識できるためのもの、即ち他宇宙との膜の四つの膜があり、この膜はゼロと一次元の間にある膜でもある。

そしてその膜には軌道電子がある。

既に物質であった私には一層目の記憶がない。当たり前だが二層目の物質界からの記憶しかなかった。

二層目の太陽系にある物質界を抜け出そうと思った時に悪魔が現れた。即ち、自我と自身の偏った想いを無くそうと思ったときに現れたと言えるのではと思うのだ。

この悪魔(自分)との戦いが非常に厄介だった。自我である欲を捨てるのに一年掛かった。
何度も殺して欲しいと感じるまでの苦痛があった。
死んでも、死んだ後に次の生が来ようとも、この悪には屈したくない。屈することはあり得ないと心は決めていた。3年前のことだ。

三層目の膜は自ら進んで抜けた。それは他者との繋がりで、自と他をどうしても分けたかった。自が他である故に、自分へ苦痛が舞い込み、自分と認識する他者が同じ状態の、そのままでは生きていられなかったからだ。
その時現れた悪魔に私は身体全身が操られていた。自分ではどうすることもできないくらいにチグハグでカラダが狂っていた。

とても身近で3ヶ月くらい前の話である。
他者と自身を繋ぐネットワークのようなものを切ろうとしたときに現れたのだった。

離れようとしたときの苦痛は丸一日で済んだ。

抜けたと感じたのは、その後、この苦痛と自が他である故の苦痛がなくなったからだ。
今思えば、これが三層目から抜けた瞬間だったと感じる。

以後、私は四層目の膜にいた。
宇宙の基盤の膜内である。

殆ど苦痛がなかったが、この殆どさえ無にしたかった。ほんの僅かでも、それが日常だと苦痛になる。

四層目(宇宙)と五層目(他宇宙)。

ここを脱することができた。
僅かな、痛みも苦痛も支配も嫌だった。

このとき神(悪魔)は、私に囁いた。
「あなたはそれでいいのか」と。

良いとか悪いとかが問題ではなく、私は膜さえあるのが嫌だった。その中にいる圧迫感が嫌だった。ほんの僅かにある、自身の嗜好の問題かもしれない。

私の性質は膜だと感じる。
「電子」である。
膜の性質は、自身で大きくなることも小さくなることも移動することも分裂することもできない。他の力が加わることでそれらが起こる。内外の性質を敏感にキャッチして適応出来る能力もある。
しかし、性質の異なる膜同士がぶつかることは嫌がり、衝突した場合どちらかの膜が消失するか離れていく。
性質が同じ場合は重なるか、混じり合い、同一の膜となる。

そんな性質を持っている。

この膜は私にとって神であり、悪魔でもあった。

そして、宇宙にある四つの膜の全てから脱した。

よって、私の精神はこの宇宙にはない。

しかし、ここは安心感や平穏、心地良さも、フラット感もない、まさに「無の無」である。

こんな感じ…。 宇宙よ。。

ーー


彼岸と此岸の話でもあり、神の手の内側、支配の中と外の話でもある。物理でもあり、神学、哲学でもある。

死と生の話でもあり、そこは、そこに溝のような段階のようなものがあるが、近づけば、膜で覆われているだけの、透明な空間が続いている。

しかし、その空間の性質は嘗て此岸だったところとは異なっている。

安心感さえないこの空間は、「無の無」、有の無さえ捨て、全てを捨てた「消の消」と言えると思う。此処が真の涅槃なのだろうか?
何処が涅槃だろうと、そんなことは私には関係なく、この敏感な私が何も感じないのだ。

今のところは。。

ーー

膜の性質である私には、記憶がない。

今世の記憶は、寝ている時以外は意識ははっきりとある。そして自身での妄想や幻想は一切見ない。そのような作り話は作ろうと思った瞬間に吐き気がする。

独自の世界を作っていると思われているだろうが、自分には創るという概念がない。

膜で覆われた内と外の概念理解は長けている。
でも、そこに至った経緯の記憶が一切ないのだ。

私は、自分の史的記憶を知りたいと思う。

記憶は、記録に頼るしかなく、各歴史的文献を読んではいるが、これは自分だと確実に腑に落ちるのは、ツァラトゥストラだけなのだ。

アカシックを開いても、そこに事実はあるが、
真実として自分の腑に落とすことが出来ない。

秦の時代や、神武前の神代の時代、その後の後世の時代を読んでいると懐かしく感じる。
その文献の内容が実際の記録なのか間違ったものかはわからないが、ただ、懐かしくは思う。

ツァラトゥストラのように、強く腑に落ち、強く繋がるものを探している。自分に記憶がないためか、記録を発見したい意欲はあるのだった。

それが今世の生き甲斐でもあり、いつか他者が私を必要とするまで、必要とされなくなるまで、3次元で生き、生きながらえているのだと思う。
この想いは3年前から変わらない。


自分というものがなくなった、その時から、死も生も変わらぬものとなり、ただ、此処に生きているならば、僅かな苦も無くしたいと思うだけである。



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ps.ツァラトゥストラは私だけど、ニーチェは私ではない。それははっきりわかる。でも、何故私を主人公にしているのだ、何故男なのだ。という想いはあり、吐き気がするくらい、私の思考や根底にあるものがツァラトゥストラと同じなのだ。ニーチェにより、芸術性がプラスされている私。と言った感じ。





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