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整数論とアラビア数字

~日本における代数的整数論の開拓者~


楽譜が無くても音楽は存在し、文字が無くても民話は存在する。同じように数詞が無くても数学は存在するのである。
 
紀元前3世紀頃、日本には文字も数詞もなかった。古代ギリシャやローマにおいても、アルファベットを組み立てて数字を表していた。漢数字は亀甲文字由来で中国が発祥地である。

算用数字とも呼ばれるアラビア数字が普及していない社会で「数論」は成立できるのだろうか。

<アラビア数字の起源と普及>
 アラビア数字の起源はインドにあるという。6世紀頃に零も含めた数字がインドで用いられるようになり、アラビア経由で、830年頃にはヨーロッパに伝えられる。
その後、ヨーロッパでは印刷技術の影響を受けながら、16世紀にはローマ数字からアラビア数字に置き換わったと言われている。
 
印刷技術の発展の意義は大きい。音楽は楽譜とともに表現されるようになり、ヨーロッパの数学はアラビア数字とともに議論されるようになる。

<日本の漢数字の時代> 
日本では、奈良時代に漢字が伝えられ、長く漢数字が用いられてきた。江戸時代に「二八」と書けば、和算家でなければ、位取り記数法が普及していない時代であり、「九九」の影響から「16」を意味していた。
 
漢数字の位取り記数法は、江戸時代の蘭学書や和算書にわずかに残されている。
和算家の建部賢弘は「円理綴術」(1706)の中で「513」を「五一三」と記載しているという。
 
「和算」が発展していた日本では、位取り記数法を備えたアラビア数字が普及することによって、「整数論」は発展することができたのではないのだろうか。そんな発想で日本における「整数論」の起源と発展をさぐってみる。

<ユークリッド原論から16世紀へ> 
アラビア数字が誕生するはるか以前の、紀元前3世紀に編纂された「ユークリッド原論」では、第Ⅶ巻、Ⅷ巻、Ⅸ巻に「数論」が当てられている。
 
第Ⅶ巻は23個の「定義」から始まり、定理とその証明が文で述べられる。数字は見当たらない。
定義の「Ⅰ」は「単位とは・・・」であり、「Ⅱ」は「数とは単位から成る多である。」とあり、最後は「完全数とは自分自身の約数の和に等しい数である。」と述べられている。
 
「原論」を見ると、アラビア数字が誕生も普及もしていない社会においても、限りなく続く自然数や、その中の素数の概念が成熟していたことが分かる。約数や素因数分解の一意性、素数が有限個でないことや、互除法などについても記載されている。
 
何より驚くのは、単位のない「数そのもの」が研究の対象になり、「数が定義」されていることである。数学が哲学の一部であった社会にあっては当然なのかも知れない。
そんな数論の歴史をもつのが「洋算」の世界である。
 
しかしながら、ヨーロッパでの数論は16世紀までは「原論」の域を出ないほど停滞していた。アラビア数字が普及し、3次方程式の解法が議論され、小数が演算の中で用いられるようになるのもヨーロッパでは16世紀に入ってからである。(小数の発生は紀元前の中国で、中国で演算の中で用いられるのは13世紀であるという。)
13世紀のレオナルド・フィボナッチの活躍はあるが、数論の進展はピエールド・フェルマー(1607~1665)を待たなければならなかった。

<和算の世界> 
ヨーロッパの「洋算」と比較するのは、時代も文化も異なる「和算」の世界である。「和算」の世界では常に「径を一尺とする円周の長さを問う」というように、単位がつく漢数字が用いられ、「実物」から始まる。
そして、「問い」に対する「解答」として、単位のついた漢数字が示される。したがって、「数そのもの」を研究の対象にすることは殆どなかったと思われる。
 
唯一、「円周率若干を問う」に対する解答として、関孝和は単位の付かない分数、「355/113」を示している。
 
この分数は、円に近い「正多角形(2^17)」の周長として「三、一四一五九二六五三二八八九九二七七五九弱」を用いて求めたという。
和算家にとっては、漢数字の位取り記数法は「必要不可欠」であり、「常識」であったと思われる。
それでも、「二」や「三」という数字そのものの特徴や、自然数相互の関係を探るような「数論」には発展することはなかった。(ただし、「方陣」などの数字遊びのようなものは研究されていたようである。)
 
<和算と洋算の融合>
ところが、江戸時代末期になると、「和算」と「洋算」の融合が始まる。
例えば、加賀藩では、1864年に「海軍所」を設け、軍艦を購入し、航海術と数学に力を入れる。そして、長州藩から「洋算家」の戸倉伊八郎を招聘する。そして、その戸倉から「洋算」を学んだのが「和算家」の関口開である。関口の中で「和算」と「洋算」が融合していく。
 
1871年(明四)に廃藩置県となり、1872年(明五)に「学制」が施行され、「洋算」が勧められるようになる。
数字は漢数字から位取り記数法のアラビア数字が中心になる。
数字の読み方も「ひ、ふ、み、・・・」から「イチ、ニ、サン、・・・」に変わる。そして、「約数や倍数」、「素数」という数論に近い概念が指導されるようになる。
 
この頃が「日本における数論の始まり」と考えられる。
関口は小学校の教員を経て、加賀藩校「明倫堂」の流れをくみ中学校教員養成を目的とする「啓明学校」(翌年に「石川県中学師範学校」と改名)に移り、河合十太郎などを教える。
教える内容は「洋算」であるが、教え方は「和算」流で、具体例題から理論全体を推測させ理解させる方式であった。
 
教えを受ける河合十太郎も「啓明学校」入学前は「和算」を学んでおり、関口に「洋算」を学びながら、二つの数学の融合を進めたのである。

<高木貞治の誕生> 
その河合十太郎に京都の第三高等中学校で数学を学び、大きな影響を受けたのが、1875年(明八)生まれの高木貞治である。高木貞治は岐阜県本巣市数屋(数屋村)に生まれる。(同年生まれには、柳田國男、シュヴァイツァー、作曲家ラヴェルなどがいる。)
 
高木貞治は「和算」を学んだ経験はない。しかし、「和算」の心や学ぶ方法は、河合から受け継いだと思われる。
また、高木は「三校」で、山形県上山出身ながら広島に住んでいた吉江琢兒と生涯の友となる。
 
同じ頃の1873(明六)年、徳島市に生まれた林鶴一は広い知識をもち、「和算」についての造詣も深かった。チフスに罹り、東京帝国大学に入学したのは高木貞治、吉江琢兒と同時だった。
そして、三人は1897年(明三〇)に東京帝国大学を卒業する。

<藤澤利喜太郎> 
東京帝国大学では新潟県佐渡相川出身の藤澤利喜太郎(1861~1933)の影響が大きい。藤澤は菊池大麓に続く日本では二人目の数学教授である。菊池はイギリスに留学し、藤澤はイギリスとドイツに留学する。
藤澤が留学した当時の数学の中心はドイツのベルリンにあった。ベルリン大学にはヴァイエルシュトラス、クロネッカー、クンマーがいた。
藤澤は(高木貞治の言葉によると)「世界的の全数学」を日本に持ち帰った人物だという。もちろん、世界の最先端の数論も持ち帰ったのである。
 
<高木貞治が整数論に向かうきっかけ>
藤澤利喜太郎が「セミナリー」で高木貞治に与えた課題は「アーベル方程式につきて」であった。
高木のこの課題に答える論文は現在の東京大学に残されているという。
 
その内容は、アーベルの5次以上の一般方程式についての「不可能性の証明」、ガウスの円周等分方程式論、ガロア理論、そして、「ウエーバーの代数学」について述べているという。
特に、「ウエーバーの代数学」においては、アーベル方程式と数論が密接に関連していることが指摘されていて、高木が整数論に向かうキッカケになったと言われている。

<ドイツへの留学> 
東京帝国大学を卒業した翌年の1898年(明三一)に高木貞治はドイツに留学する。最初はドイツのベルリンに行くが、数学の中心はベルリンからゲッチンゲンに移っていた。それで、1900年の春に、25歳の高木はゲッチンゲンに行き、38歳のヒルベルトに師事する。
 
ドイツの隣国フランス(パリ)では、1900年(明治三三)の4月15日から「万博」が始まり、5月14日からはオリンピックが開催されていた。
 
それに合わせて、二回目の国際数学者会議がパリで開催され、8月8日には、ヒルベルトが「将来の数学問題について」という演題で「23個の問題」を取り上げている。
同じ日に、日本の藤澤利喜太郎が「旧和算流の数学に就いて」と題して講演を行っている。
高木はドイツにいて、どちらの講演も聴いてはいない。
 
翌年の1901年3月に、高木の父:勘助が肺炎で亡くなり、高木貞治は9月にゲッチンゲンを発ち帰国の途につく。

<高木貞治の第一論文> 
この年の6月には、最初の論文が完成し、「代数的整数論」の
世界最先端の業績をあげている。
高木から見せられたヒルベルトはこの論文がゲッチンゲン大学の学位論文として提出されるものと思ったらしい。
しかし、高木はこの論文を日本に持ち帰り、東京帝国大学に提出する。
論文は「複素有理数域におけるアーベル数体について」という題である。

内容は「ガウス数体上の相対アーベル数体はレムニスケート関数の周期等分値により生成されるだろう」というクロネッカーによる1853年の予想に証明を与え、さらに「レムニスケート関数の虚数乗法の問題」を解決するものであったという。

<日本の代数的整数論> 
日本における数論は、漢数字からアラビア数字に代わった時代に始まる。そして、特に代数的整数論は、藤澤利喜太郎が日本に持ち帰り、和算と洋算が融合した土台の上に、高木貞治ひとりによって世界の最先端まで辿り着いたことになる。
 
その後、高木貞治は1915年に「高木の存在定理」と呼ばれる定理を証明する。
さらにその後、高木は1920年(大九)に「相対アーベル数体の理論」という論文を書き上げる。この論文で高木はヒルベルトの「分岐しない類体」の「類体」の概念を拡張し、「分岐する類体」の理論を完成させ、「クロネッカーの青春の夢」を完全に解決したという。
 
そして、1922年には「任意の代数的数体に於ける相互律」という論文が東京帝国大学理学部紀要に載るのである。
(この論文は実際には1920年6月には書き上げていたという。)
 
<広い整数論の世界>
ここまで、「代数的整数論」について述べてきたが、整数論には素数の分布やゴールドバッハ予想に迫る「解析的整数論」もあれば、代数幾何の道具を用いる「数論的代数幾何」という整数論もある。
また、代数的道具や解析的道具を用いない「初等整数論」と呼ばれる領域もあり、興味は尽きない。

<吉江と林の数学世界> 
ところで、東京帝国大学に高木貞治と同時に入学した吉江琢兒と林鶴一について補足しておく。
高木を含めて、三人は1897年(明三〇)に東京帝国大学を卒業する。
そして、吉江は一年間の「志願兵」を終えて、やはりドイツに留学する。
ドイツのゲッチンゲンでは、高木と同じくヒルベルトに師事し、「微分方程式論」の分野で活躍する。
温厚篤実な人柄で、1902年に帰国し、東京帝国大学の教授となり、1935年に定年退職する。
 
また、林鶴一は、卒業した年に設立されたばかりの京都帝国大学の助教授に任命される。その後、1905年に助教授を辞し、父親の知人からの依頼を受け「坊ちゃん」で知られる松山中学校に赴任する。
ここでの経験が、後に林を「中学校教育」に取り組ませることになる。
また、東京高等師範学校の講師を務めるきっかけにもなった。
 
その後、1911年(明四四)に新設された東北帝国大学の教授に迎えられる。
林は数学に関する幅広い知識をもち、1911年8月に、日本最初の数学専門誌「東北数学雑誌」を創刊する。これには日本ばかりではなく「英独仏伊」の数学者にも論文を募り、日本の数学発展に貢献した。

また、林は「和算」の研究にも努め、多くの成果を残している。その一つに、「洋算」の「行列式」にあたる内容を、ライプニッツより先んじて関孝和が発明していることを発見する。
そして、林は「洋算」より「和算」の研究に力を入れるようになり、川北朝鄰から「関流八伝免許状」を受け、「最後の和算家」と呼ばれている。


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