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「ひ」から拡張する数体

<はじめに>
 はる、なつ、あき、ふゆ。これらの四季を表す言葉は規則正しく「2音」である。そして、「はる」と「あき」は1音目にアクセントがあり、「なつ」と「ふゆ」には2音目にアクセントがある。
なぜだろう。そんなことを考えると、言葉には歴史があり、現在の言葉に至る経緯があることが分かる。

四季を表す言葉も同時に発生したのではなく、「はる」と「あき」が「なつ」や「ふゆ」より早いのかも知れない。
数万年前に、日本人は芽吹きに感動して「はる」を、収穫の喜びと西日の美しさに「あき」という言葉を発生させる。その後に「2音」という規則に導かれて「なつ」と「ふゆ」という言葉を発生させたのではないか。そんな妄想に駆られる。

さらに、その後に四季を総合するような「きせつ」という言葉が発生し、「抽象度」が高い言葉が増加して、日本語の現在の姿がある。

<数にも歴史が>
数も言葉と同じような歴史を経ているはずである。指で個数を示す「ひ」、「ふ」、「み」は最初に発生した数の源であり、その後に、「よ」、「い」、「む」、「な」、「や」、「こ」、「と」、十指までは、日本人の体の一部である指の動きと、収穫やそれを伝える体験から発生したものであろう。
「いち」から「じゅう」までの原初の「数の概念」は、直接的または間接的に、身体的な経験に根づいている。
したがって、「じゅう」までの同じ「数の概念」を得ているとしても、一人ひとりは、きわめて「個性的」な背景をもっている。

<十進法>
直接的または間接的な経験は、原初の「数の概念」形成で終了するわけではない。「束ねる」、「まとめる」という経験は「じゅう」、「二じゅう」、・・・、「九じゅう」まで進む。そして、とうとう「ひゃく」に到達する。

幼児は「ひゃく」まで数えて万歳をしたりして喜ぶ。
しかし、幼児は豆粒を百個数える経験もないし、実際に数えることはできない。百個の豆粒を実際に数えるには、容器の工夫など、「技術」が必要になる。
オトナのあなたは1合容器内の米粒を数えることはできるだろうか?

「二桁の整数までの概念」から「三桁の整数」への拡張は比較的容易に見える。確かに、「数唱」するだけであれば一気に「四桁」や「五桁の整数」まで拡張することは容易である。
ところが、「三桁」を超える個数のモノは、たやすく見つからない。見つけても、数える労力を考えれば分かるように、自分で確かめることは困難になる。「1合の米粒は約『6500』」と言われたら、その資料を信じるしかない。
 直接的または間接的な経験は「数の概念」を拡張する時に強力な支柱になってくれる。

<整数の概念>
 例えば、中学生活を経験すると、自分の学級に四十人いると、一つの学年には四百人がいて、全校生徒が集まる集会では生徒「1200」人のイメージが捉えられる。その延長で小さな町の人口「24000」人という大きな数にも実感が湧く。

 たった一つの数字であっても「実感」があれば、他の「五桁の整数」や、もっと大きな整数についても、「十進法」により拡張された「整数の概念」として受け入れ、計算にも活用できるようになる。

 もちろん、整数全体は「直接的または間接的な経験」からは遠く離れ、「抽象度」が増して「自立した体系」のように見えるかも知れない。しかし、いくつかの「実感」のある整数が点在し、それを支える経験も点在しているのである。
・・・これが「整数の世界」の現在を形作っている。

<雲の高さと抽象度>
さて、雲は十種に分類されるという。地表からの高度だけで分ければ、低い方から「層雲、積雲、巻雲」となる。そして、私たちが普段見ている「雲」は、「綿雲や雨雲、入道雲」を含めて、高度二千メートル以上の「積雲、巻雲」に属している。

ところが、私たちが「雲」と実感することが少ない「地表から六百メートル」付近に出来る「層雲」があるという。登山を経験している方は「霧雲」と呼ぶかも知れない。
「層雲」は地表に接していれば雲ではなく「霧」であり、地表から離れていれば「層雲」と呼ばれるという。

地表からの高度で分類される「層雲、積雲、巻雲」は言葉の世界に似ているように思う。私たちの身体や運動に伴う「直接的あるいは間接的な体験」を「地表」に見立て、その体験からの抽象度を「高度」として見るのである。

「ギクリとする」という言葉は、私たちの身体や運動に伴う「直接的あるいは間接的体験」をよく表している。つまり、「地表」に近い「オノマトペ」言葉として発生し、「今では」疑惑の周辺に漂う複雑な状況を表現するきわめて「抽象的」な言葉に成長している。

<数の抽象度>
手の「親指を立てる姿」は「現在」スポーツ選手がプライドを示す場合によく見られる。和語の「ひ」は数字の「一」を表す「数詞」であり、数字が無い時代には「親指を立て」て「ひ」を表したという。(「ひ」「ふ」「み」・・の「ひ」である。)
そのようにして発生した数詞の「ひ」であるが、「現在」では数字の「1」であり、「一位」の「1」であり、始まりの「1」であり、「最小の自然数」と呼ばれるほどに抽象性が増している。
数の世界は「一個、二個、・・」などの「地表」から離れ、ドンドン抽象度を上げていく。まるで、地表二千メートル付近で発生し、一万三千メートルまで成長する夏の入道雲のようである。

<整数論の始まり>
一から十までの「地表」に近い所で発生した整数も、地表近くにとどまっているわけではない。「千一、千二、千三、・・・、千九、千十」と数唱されるだけではなく、「三桁、四桁」の整数と同じくらいの、「高い抽象度」を備えていく。
そして、「整数全体」という無限性を含むほどの、抽象的で、しかも実在的な存在になっていく。

整数「2」は最小の素数であり、唯一の「偶数の素数」である。

このような書き出しで始まる「整数論」において、「2」は「整数」や「素数」という概念に支えられる「高い抽象度」をもつ存在になる。
まるで、「2」という整数がモノのように、実在するかのように、「2」は「因数分解できない」などと表現される。
これが、整数「2」の現在なのである。

<分数の起こり>
整数ばかりではない。有理数に含まれる「分数」もまた「地表」近くで発生しながら、急速に「抽象度」を上げた数である。

紀元前1650年頃に書かれた「リンドパピルス」には百一までの奇数を分母とする「分子2」の分数が、「分子1」の基本分数の和にできることが示されているという。

一個のモノを3等分する経験。二個のモノを3等分する経験。これらの経験を「地表」として分数が発生したと思われる。
その後、m個のものをn等分する間接的な疑似経験によって「m/n」という一般的な「分数の概念」に辿り着く。

また、分数は「二つのものを比較する」という経験にも根ざしている。つまり、「比の概念」の一つの表現でもある。
「2:3」という比から「2/3」という「比の値」としての分数に辿り着いたと考えられる。
そして、「比の概念」は宇宙の構成比にまで及び、ピタゴラスは「万物は数(有理数)で表せる」と信じていた。

それほど分数は想像以上に「抽象度」が高く、小学生にとっては理解が難しい。現代のオトナにおいても分数の計算は容易ではない。
(「分数÷分数」の計算などを思い出していただきたい。)

<有理数の稠密性>
また、分数と分数の間には必ず分数が存在し、限りがないという「稠密性」も明らかになる。

そして、1891年には、ゲオルク・カントールが「有理数全体と自然数が一対一に対応する」ことを証明する。
これは「対角線論法」と呼ばれる一種の「背理法」であるが、概要は次の通りである。

 まず、分数を分母nと分子mの「対」と考えれば、(m,n)は座標平面上の「格子点」として示すことができる。ただし、(2,3)と(4,6)のように同じ分数が複数回出現することになる。

上図の格子点で横軸が分母、縦軸が分子とすると、「2/5」という分数は(5,2)の点になる。

カントールの証明は(1,1)から数え始めて、「数え残し」がないように数えることができることを示したのである。
ちなみに、(5,2)という分数は「十七番目」に数えられることになる。

<可算無限と非可算無限>
カントールは、有理数全体と自然数が「一対一」に対応付けできることを示して、無限集合を「可算無限」と「非可算無限」に区別してみせたのである。

また、カントールは任意の集合Aの「べき集合」の個数(濃度)はAの個数より確実に大きくなることを証明する。
「べき集合」とは、例えば、集合Aが{1,2}だとすると
{{空},{1},{2},{1,2}}のことであり「2^A」と表される。
集合Aの元の個数が「2」であれば、その「べき集合」の元の個数は
「2^2=4」になるからである。

集合Aの個数が有限の場合は、「A  ‹  2^A」となることは自明である。
カントールが証明したのは、Aが無限集合の場合にもこの不等号が成り立つということである。
Aが無限集合の場合は「元の個数」とは言わず、集合Aの「濃度」と呼んで区別している。
このことから、Aが「可算無限」の有理数全体の集合だとすると、その「べき集合」が存在し、その集合は「非可算無限」になることを証明したのである。

また、有理数全体には含まれない「非可算無限」の集合が存在することを予言したことになる。
これが、1900年代における分数を含む「有理数の現在」である。

<有理数体>
なお、有理数全体の集合は、加法について「群」を成し、乗法についても「可換」な「群」となることから、「零で割る」ことを除いて、加減乗除が自由にできる「数体」であることも明らかになった時代である。

<無理数の発見>
無理数の一つである「√2」も、経験に基づくもので、「地表」近くで発見されて今日に至る数である。
古代ギリシャ時代のピタゴラス学派の一人が「ピタゴラスの定理」とも呼ばれる三平方の定理と簡単な作図から発見したと言われている。
すなわち、一辺が「1」の正方形の対角線の長さは「比」(分数)では表すことができない存在として発見される。

一つの無理数が発見されると、次から次へと無理数が見つかる。「ルート記号」の中の数字は、自然数から、有理数にまで広がる。

<無理数と方程式>
また、十六世紀になると、3次方程式や4次方程式の解法が注目されるようになる。
イタリアのカルダーノ(1501~1576)は「平方根」ばかりではなく「立方根」などを用いて解いている。
もちろん、「2の立方根」も有理数ではなく無理数である。

無理数の個数はどんどん多く知られるようになる。無理数の一つである「√2」に有理数を掛けたものも無理数であり、有理数を加えたものも無理数である。
そうすると、明らかになった無理数は、少なくとも「可算無限」の「濃度(個数)」になる。
(a、bを任意の有理数とすれば、「a+b√2」は無理数である。)

<無理数全体の濃度>
 20世紀に入っても、無理数全体の濃度(個数)は「可算無限」なのか「非可算無限」なのか判別できない状況であった。
 数学者ヒルベルトは1900年8月8日に、パリで開かれた第2回国際数学者会議で講演を行い、当面の数学における問題として「二十三の問題」を示す。
その第一の問題が「連続体仮説」と呼ばれるもので、無限濃度nに対して、「n ‹ m ‹ 2^n」となる「mは存在しないだろう」というものであった。

この「連続体仮説」は「否定も肯定もできない」ことが、1963年にクルト・ゲーデルとポール・コーエンによって証明される。
他方、Aが「可算無限」の自然数全体とすると、「2^A」の濃度と実数全体の集合Rの濃度が等しく「非可算無限」の集合であることが証明される。

<実数論>
この証明により、「可算無限」の有理数だけでは埋め尽くせない数直線は、「非可算無限」の無理数を含めることで「連続」する数直線として完成できたのである。
このことは、1872年に発表されたデーデキントの「切断」による実数論が、1963年になってようやく「完成」したことになる。
もちろん、実数全体の集合は「数体」であることは明らかである。

<数とは何か>
ところで、実数論の完成によって、「数とは何か?」という問いに対して一つの答えが示されたのではないのか。
つまり、幾何学における「直線上の点」を表すモノとして「実数」がある、という主張である。
そして、その主張は、幾何学における「平面上の点」を表すモノとして「複素数」がある、と拡張できるのではないのか。
さらに、「3次元空間上の点」、「4次元空間上の点」、・・・と拡張できるのではないのか?

<複素数の発見>
複素数の発見は、生活の中での「直接的あるいは間接的な経験」からは遠い所にあった。
しかし、「2次方程式」や「3次方程式」を解く過程でしばしば出現していて、「意味のない数」として無視され続け、複素数として発見されるまでに長い年月を要しただけである。

ガウス(1777~1855)は、1796年以前に複素数の概念を得ていたという。それでも、1799年の学位論文である「代数学の基本定理」の証明においては、巧妙に複素数のことを隠して表現したという。
そして、1814年にコーシーが複素関数論を論じ始めると、ガウスは「機は熟した」とみて、1831年には複素数を用いた論文を発表する。
そして、1835年にはハミルトンが、実数の対として複素数を定義する論文を発表する。
これらの経緯から、複素数の発見は1800年頃と言える。

<複素数の意味>
また、複素数の「極形式表示:[r(cosθ+isinθ)=r×e^iθ]から明らかになる事がある。
それは、複素数が「2次元の平面上の点」を表すばかりではなく、「1次元の数直線上の点」の「回転」を示すものでもある、ということである。

上図では数直線上の「5」が「θ≒37」度だけ回転した様子が「4+3i」という複素数で表現されている。

<四元数の発見>
そして、複素数が発見されると、1843年にはハミルトンが「四元数」を発見する。「a,b,c,d」は実数で、虚数単位を「i, j, k」として「a+bi+cj+dk」と表される数である。
この四元数が加法、乗法について「群」に成り得るのかどうか。
ハミルトンは虚数単位の間の関係を探り、「i^2=j^2=k^2=ijk=−1」
「ij=−ji=k」、「jk=−kj=i」、「ki=−ik=j」であることを発見する。

 四元数は「可換」ではない。しかし、ノルムは「可換」であることがわかり、四元数全体の集合は、「実数体上のノルム四元体」になるのである。(ノルムは√a2+b2+c2+d2 である。)

そして、四元数は、4次元空間の点を表すばかりではなく、3次元空間での回転の計算などにも応用されている。

<いろいろな数体>
残念ながら、「数体」という「数」が持つべき性質を備えているのは、「複素数」までで、「四元数」、「八元数」などは「ノルム多元体」であり、「三元数」、「五元数」などは発見されていない。

なお、「数」が持つべき「数体」としては、有理数体、実数体、複素数体の他に、複素数体の一部を一般化したような「2次体」などがあり、研究が進められている。

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