見出し画像

なぜ私が「保母」を目指したのか?! その原点である、母と私達家族の人生から今思うこと💛

 

今は「保母」とは言われない・・。
「保育士」は国家資格になった。

私が資格を取った時は「保母」という名称だった。私が「保母」になりたいと思った理由は私の生い立ちにあったと思う。
その話を今日はしてみたい。今回も少し長くなってしまうがお許しを<m(__)m>

私の両親は二人そろって教師だった。
私が生まれたころ、産前休暇はまだ4週間、たった一か月の私を私の祖母(母からすると義母)に預け仕事に戻ったそうだ。母として教師として悩みや辛さはあったが、私が健康であったのでなんとか日々を乗り越えていたようだ。

私が4歳の時に弟が生まれた。弟は右足に障碍を持っていた。内反足だった。
産婦人科ではその事実を伝えてくれなかったらしい。母が弟のおむつを取り替えたときに足が極端に内側に曲がっていることに気が付いた。看護師に聞くと「うちのせいではありませんよ。退院したら整形外科に連れて行ってください」と冷たく言われたとのこと。

弟が生まれて12日目に母は弟を整形外科に連れて行った。
診察後、主治医に「連れてくるのが遅すぎた。生まれてすぐだったら楽に治せたのに。生まれて12日経ってしまったから12年間は普通に歩けない」と言われたそうだ。
その事実を知った時、母は相当落ち込んだ。でもやるしかない!
12日目から生まれたばかりの赤ちゃんのリハビリが始まった。産休は4週間。母は弟のリハビリに懸命だった。
でも私は弟が心から大好きでとにかく可愛くて仕方なかった。補装具を付けて歩いていてもそれもまた可愛かった。愛くるしいその可愛さと私が可愛がる姿に家族もだんだん「障碍があっても彼は彼」と思うようになっていったようだ。弟は母の懸命なリハビリもあり、左右の足の太さや長さが違うためぎこちなさはあるものの普通に歩けるようになった。
私はといえば、弟はもちろん、他の子ども達も大好きだったし小さい子のお世話が大好きな子どもに成長していった。

話は少し戻って・・母は産休中に「養護学校」に見学に行ったそうだ。
「こういう障碍を持った子ども達はどんな生活をしているのだろう・・」を知るために・・。
見学に行って「この子たちのために生きていくことが私の使命かもしれない・・」と思ったそうだ。
母は復帰からすぐに「養護学校」で働く希望を出し続けた。

そして数年たち、母は念願かなって「養護学校」の先生になった。
私が小学校4年生のころには、養護学校の運動会のお手伝いにもいった。
そして私も沢山の障碍児と出会った。脳性まひの生徒が母の指導で足の指を使ってオルガンを弾いていた。筋ジストロフィーの生徒とは文通も始めた。
母にとっては教師として教育のため私を利用したところもあったかもしれないが、私にとっても人生を考える機会となっていった。

母は養護学校をでた子ども達をわが家によく招いていた。脳性まひや障碍を持つ子どもの母親たちが母を頼って相談や話に来ていたのだ。卒業してからも母と障碍児、そしてその親とのつながりは途絶えることがなかった。
そして、将来母と父は「障碍者の作業所」を作ることになる。
その話はまたいつか・・☆☆

そんな環境で育った私は、小学校を卒業するころには「保母」になりたいと思っていた。
「教師」ではなく、世話をする側の仕事がしたかった。そして「保母」になるだけではなく、「福祉を学びたい」と思い、愛知にある福祉大学に進学した。
福祉大では、哲学、経済学、社会保障論、福祉政策、社会学、障碍児者教育、労働問題などを学び、進路を決めるときに「教師課程」ではなく「保母課程」を選んだ。「保母課程」では、子どもの発達、子どもや親を取り巻く状況、保育所問題、音楽、製作なども学んだ。
大学での学びは目から鱗のことばかり・・。刺激的な毎日だった。

就職活動の際には、市役所の職員へのお誘いもあった。でも私は現場に出たかったので最初に就職したところは「障碍児施設」だった。
やはり私の原点は、弟との出会いであり、障碍児者、そしてその保護者との出会いだったのだと思う。
そして、結婚を契機に夜勤の仕事もある「障碍児施設」は退職し、保育園での仕事が始まった。保育園でも「発達障碍児」とのかかわりは続けていた。
途中、高齢者の「デイケア」の仕事も数年経験したが、やはり子ども達と関わる仕事に戻っていったし特に障碍児やその保護者とのかかわりは私のベースとなっていた。もちろん、子ども達はみんな大好きだった。子ども達の素敵な姿にいつも泣かされていた。私が嬉しくても感動してもすぐに泣いてしまうので、ある子に「先生の目には水道があるみたいだね、すぐ水が出てくるね。早く水道止めたほうがいいよ」と・・その子も今は一人の母親になっている。

保育園の魅力は、その役割が「子どもの発達を支えること」と「保護者の働きを支えること」つまり「福祉」であることだ。
保育園での保育者は、親の代わりに愛情をかけて丁寧に関わることが大切だと思うし、働くママを徹底的に支えることが大切だと思う。もちろん親の変わりはできない。子どもの教育の第一義的な責任は保護者だ。でも、保育時間はその保護者から託されているわけだから出来るだけ愛情を注ぎ、その子どもが笑顔で幸せであるように育てるという責任のある仕事だと思う。
だから簡単な保育の方法や「これをすればよい」などないし、一人一人と向き合う中で今目の前の子ども達の発達のために何が出来るのか、保護者の何を支えればよいのか、を自分自身で、あるいは職場の仲間と学びながら考えることが一番大切なこと・・。目先のことではなく保育の本質を忘れてはいけないのだ。・・保育を語るとまだまだ語り足りない(笑)

なので、私は「保育」分野のライティングをする際に戸惑ってしまうのだ。(ライティングの仕事のついてはいずれ書こうと思っている)
保育の技術的なことや製作や行事などはもちろん保育者として大切なことだが、私は「保育」で大事なのはそんなことではないと思っているから。でもそれは私の考えだ。だから「保育」は「これをすればよい」というような記事を書くのには抵抗があるのかもしれない。しかし、ライターは「保育者」や「園」が今知りたい、聞きたいことに答えることが求められる。だからそれに愛を持って答えるのがSEOだといういうことは理解しているのだが・・。

ちょっと横道にそれてしまうかもしれないが・・一言だけ。
現場の保育者はすぐ答えを知りたいし、職場での人間関係での悩みもあるから、ネットの世界ですぐ答えを求めるのだろう。そこも支える必要があると思うが、保育者としての本質的な成長は誰が育てるのか・・。そんなことも思うこの頃・・。だから、本当の意味で「保育者」を育てたいとは思うし、徹底的に保育者の味方にもなりたいと思う。
保育の現場はまだまだ古い体質やしきたりがあるのも事実。それぞれの園の歴史もあってなかなか専門学校や大学で学んだことが生かせないかもしれない。
学んだことと現実の乖離・・保育者だってどうしたらよいのかわからなくなることもあるだろう。だからこそ現場での保育を経験しながら本質的な学びも大切だと思う。それぞれの園が学びが尊重される職場、新しい視点や意見を受け入れられる職場になるといいなと思っている。

母の背中をみて、さらに大学での学び、施設や保育所での経験、その歴史が今の私を作ってきた。
子ども達の保育、障碍児保育、保護者の支援、さらには働く保育者を支える活動を使命と思って、決して十分ではないが、私に出来る精一杯を誠実に歩んできたとは思っている。

そして今、新たな体験の積み重ねによって福祉・保育の分野での私の最後の仕事、「終活」に取り組もうと思っているところだ。
「赤ちゃんから終活まで」そんな取り組みが出来たらいいなと願っている。

#保母・保育士
#障碍児者
#終活


サポートありがとうございます!感謝感激です💛