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身近な人を亡くした時 ② 義父母を続けて見送って

義父の死

 義父が大腸がんと診断されたのは、2019年11月、86歳の時でした。次男である夫と私を呼び告知。数か月前から排便の際に出血をしていたこともあったけど勝手に「痔」だと思って(希望的な気持ちもあったと思う)放置していたこと、「手術をするか、抗がん剤を打つか、民間療法に取り組んでみるか」など思い悩んでいる義父の気持ちを聞きました。最終的には、義父も含めてもう一度医師と話し、年齢も年齢なので抗がん剤ではなくて、手術をすることになりました。

 そのあと少し元気になりましたが、5月の連休の時に体調が再び悪くなり、検査で再発の診断が出ました。
 義父が検査に行ったときに医師から「再手術をしても難しい、抗がん剤も難しい」と言われました。医師には「手術をしたことでがんの進行が早まる「暴れるガン」だったようだ」と告げられました。
 しかし義母のことを気遣い(実は義母は当時要介護2の状態でした)、「まだ頑張りたいから手術をしたい」と義父自ら医師に伝え入院。胃からがんのない大腸までつなげる手術をしました。その後少し食べられるようになりましたが、がん自体は取り除いていないので、またすぐに食べられなくなり、二度目の手術をしてから一か月半の6月末早朝に亡くなりました。二回目の入院後、一度も退院することなく、本当にあっという間でした。発病してから半年でした。
 実は、私が家族で最後に義父と会話を交わした存在となりました。亡くなる前日私は仕事で遅番でした。普段は遅番の時には病院に行っていなかったのですが、その日職場に携帯を忘れてしまったこともあり、もし何か連絡があったら困ると思って20時近くに病院に行ったのでした。
 いつものように「どうですか?」と声をかけ、「大丈夫だよ」と応える義父。「遅いから帰りますね、おやすみなさい」と言うと「おやすみ、ありがとな」と言ってくれた義父。それが最後の会話でした。
 次の日の翌朝7時、病院から電話がありました。最後の時に家族誰もそばにいられなかったことは残念でした。

 最近の研究では、早期大腸がんは手術をしない方向になっているようですが、どちらにしても義父は発見当時が末期でしたので、何をするのも完治を目指してではなかったのだと今では思います。
 ただ担当の医師がとても良い方で、父の思いや家族の思いを聞き取り、最善を尽くしてくださったことを感謝しています。

 義母の死

 義父が亡くなったことで力を落とした義母は、義父の49日を前の8月、父が亡くなって38日後に後を追うように亡くなりました。偶然ですが義父の納骨を予定していた日が義母の葬儀となりました。義父のお清め会場が義母の葬儀のお清めとなりました。親族や知り合いからは「本当に仲が良かったんだね」と言われましたが、お互いがお互いをいたわり合い、必要とし合っている夫婦であったことは間違いありません。

 義母は要介護2で歩くことが困難だったので義父が入院してからは同居していた義兄が仕事も出来ない状態でした。父が11月に入院してからはデイサービスの利用を薦めていましたが、行くのを嫌がり、ただ毎日寝ている生活・・。今思えば本当に大儀だったのだと思います。
 でも私はただ家で寝ているだけではなく、少しは外に出たり、人と触れ合ったり、体を動かしたりすれば元気になるのではないかと思い、「地域包括支援センター」に相談に行ってみました。行ってみると相談員の方から、義父が一回退院した時に、「地域包括支援センター」に相談に行っていたことも知りました。
 義父は亡くなる前、お風呂の改造やベッド購入、手すりの設置など精力的に動いていました。義父もまた自分がいついなくなってもいいように準備をしていたのだと思います。

 義父が亡くなってからは毎日のように「もう死にたい、早く死にたい」「死にたいけど死ねない、死ぬのも大変!」と言っていた義母・・。その気持ちを少しでも変えたくてデイサービスに行ってほしいと思っていましたが、サービスを受ける前に義母もまたあっという間に亡くなってしまったのでした。
 亡くなる2日前、夜20時過ぎに義兄から夫に「母ちゃんの様子がおかしい」と電話があり、二人で急いで駆けつけると顔色も悪く息も絶え絶えの状態でした。すぐに救急車を呼ぼうとすると義母は「こんな夜に近所に迷惑だから呼ばなくてよい」というのです。でもその思いを叶えるような状態ではなかったので夫が救急車を呼び、そのまま入院。「重度の肺炎」とのことでした。

 入院してから二日間は酸素マスクをしたため、呼吸も楽で、頭もすっきりしていたようで私が顔を出すと看護師に注意されるくらい沢山おしゃべりをしてくれました。亡くなる二日間本当に色々な話ができたことは幸せなことでした。義母と最期の会話をしたのも私でした。

 危篤になってから会話はできなかったけれども「もうすぐ〇〇が来るよ」と声をかけると呼吸を頑張ろうとする姿を見て、耳は聞こえていると確信しました。東京で暮らす孫もみんな駆けつけ、義母に声をかけ感謝の言葉を伝え、みんなが集まってから亡くなりました。

 デイサービスに行くことを伝え続けていた嫁である私の行動は正しかったのか、義母にはどのように伝わっていたのか、心配ではありますが、「終活」を考える新たな視点が与えられたと受けとめています。それは動けなくなってから、認知症になってからではなくて元気な時にこれからのことを話し合う必要があるということです。でも家族の都合を押し付けるのではなく、本人の気持ちを確かめながら、また専門家も交えながら話し合い、準備をする必要があると学ばされました。

義父母の遺産分割

 義父は会社を起こして一時は数人の職人さんを抱えて建築の仕事をしていました。しかし子ども達はその仕事を受け継ぐことなく、職人さんたちも次々と独立し、義父が仕事を出来なくなってからは使用していない大きな工場を抱える形になってしまいました。
 高齢になるまで知り合いの方に頼まれれば仕事を請け負い、現役だった義父があっという間に亡くなってしまったので、事業のこと、工場のこと、相続財産のことなど、義父や兄弟同士で話し合う間もありませんでした。
 昔通帳は同じ銀行でいくつも作れていたり、業者ごとに通帳が違っていたりしていたため全ての財産の把握ができません。また遺言書は10年ほど前の日付のまま手書きで作ってありましたが行政書士に確認したところ正式なものとは認めらないとのことでした。
 相続財産は、遺産分割協議書を作成、土地の登記変更、そして相続税の申告をそれぞれの専門家にお願いし、遺産分割完了証明書が作成され、まず動産部分は兄弟3人で分割を行いました。
 工場は解体し(工場の物が沢山残っていたため解体費用は莫大でした)土地も整地、不動産業者に販売を依頼。コロナの影響で売買成立に一年かかってしまい、想定よりも安価で決着、その土地の維持管理(固定資産税、草むしり等)にも経費がかかってしまいました。
 家族で相続の分割や工場のことを解決するのは困難だったため、行政書士、司法書士、税理士、解体業者、不動産業者、測量士、などたくさんの専門家の方々にお世話になりました。手数料など支出は増えましたが、遺族はまだそれぞれが仕事を抱えながらの状態でしたので「専門家に委託する」という判断は間違ってなかったと思っています。
 そして2020年度の確定申告で譲渡について申告し、三回忌を前にした先日3月末に遺産分割の全てが終了しました。

 仲の良い兄弟ではありましたが、やはり遺産相続についてはシビアなところも垣間見られ、兄弟間の確執が発生してしまいました。それまであまり表になかったお互いへの思いまで遺産相続の過程で見えていったのです。
 義父母二人がほぼ当時にいなくなると、新盆、初彼岸、一周忌など法事では揃いますが、それ以外ではコロナの影響もあったため、会う機会がほとんどなくなってしまいました。
 とはいえ、残された兄弟にはお互いに「扶養義務」があります。結婚していない場合などは、入院の時などには「同意書」や責任も伴うことがあります。兄弟の扶養義務についても今後書いていきたいと思っています。

 この3年間、実父、義父母を亡くし、「終活」というものの大切さ、また大変さについて身をもって経験しました。しかしながら体験する過程で学びも積み重ねました。その経験や学んだことを多くの方に伝えることも私の使命だと思っています。
 これからもこのnoteでは、終活に関することを沢山書いていきます。よろしくお願いします<m(__)m>

 <参考>
※2019年6月26日 義父死亡
※2019年8月1日  義母死亡
※2019年8月10日 行政書士と契約
※2019年8月17日 遺産相続分割協議書作成
※2019年9月17日 動産登記完了、工場の解体について兄弟で話し合う
※2020年1月7日  工場解体
※2020年4月24日 相続税申告
※2020年6月20日 遺産分割完了証明書(動産について遺産分割を行う)
※2020年12月18日 不動産売買契約
※2021年3月10日 不動産分の確定申告
※2021年3月16日 不動産分の遺産分割終了

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