御殿場高原より 26 「一つのメルヘン」を勝手読みする
「一つのメルヘン」を勝手読みする
少し前までは,まだやり残したことの多さに焦りを感じて気ぜわしかった.しかし,残りの年月が一桁と予測せざるを得ない歳になって,あきらめがついたのか,遅い動きが楽しくなる.映画も最近の漫画風の演出よりも小津の『秋日和』とか『彼岸花』とか,現代のものなら『舟を編む』とか『蝉しぐれ』『小さなおうち』など時間がゆっくり流れるものを繰り返し見ることになる.若いころには,一冊でも多くと小説を読み飛ばしたものであるが,今では,小説は覗き見趣味のような後ろめたさを感じて読むことをためらう.色恋沙汰も能や歌舞伎のように「模様」になると安心であるが,小説は生々しい.それで言葉との付き合いは詩・短歌・俳句ということになる.電車に乗るときに持つのは堀口大学が素手で異言語の詩と対峙して母語化した訳詩集『月下の一群』(岩波文庫)である.活字は大きく,一語一語感じながら考えながら読むことができる.「われ等やがて肌寒き闇の中に沈み入らん,・・・」(ボードレール「秋の歌」p.288)を読むと,大学二年の秋に,赤煉瓦造りの午後の教室で,窓から斜めに差し込む陽を受けながら,後に文芸評論家になる村松剛さんにこの詩をフランス語の原語で読まされ評釈を求められたっけ,と言葉の周辺を思い出す.島田謹二さんに比較文学の手ほどきを受けているので,ああ,そうそう,立原道造はこの詩を利用して「また落葉林にて」を創ったんだった,と思い出す.
いつの間に もう秋! 昨日は
夏だった・・おだやかな 陽気な
陽ざしが 林のなかに ざわめいている
ひとところ 草の葉のゆれるあたりに
ボードレールの詩の中の表現を利用していい日本語の詩にしている.が,第三節がちょっとひどい.
澄んだ空に 大きなひびきが
鳴りわたる 出発のように
ある人は困惑して「浅間山の噴火した音にちがいない」と解釈をしている.「出発のように」をどう説明するのだろう.「出発のように」の比喩は,欧米では「死出の旅立ち」を暗示するイメージであるが,日本にはそのイメージはない.しかし,この表現があったために,この詩には原詩があるなと感じたのである.
詩を読むというのは詩人が自分の「内的資源」を基にして創った暗号を,読者は自分の内的資源で解読するということである.それでも,言葉の表層情報ではわからないところに出っくわすと,つい詩や詩人に関する伝記的情報に助太刀を頼みたくなるのも人情だ.しかし,それは19世紀的「作者全知」という解読法で,読者は作者に隷属することになる.伝記的情報処理法に助けてもらうことは詩に対してフェアでないような気がするし,読者としてのプライドが許さない.どんな詩もプロなら感覚で一気に書いて理性で直している.詩は論理構造と表層表現を組み合わせた統合的表層情報である.それなら読む方も論理構造と表層表現の解析によって勝負したい.「トタンがセンベイ食べて/春の夕暮は穏やかです」(中原中也)などでもそうである.詩の形で提示されている言葉の表層情報の組み合わせを自分の内的資源で解きほぐしたい.したがって,普段から己の内的資源の補充には心を配る.
何年か前に人工知能学会の全国大会が山口で行われたとき,中原中也の育った空気に触れたり,山頭火の歩いた道をたどったりしたくて,一日早く湯田温泉駅に降り立った.その日は,中原中也記念館に入り,また,路地の隅に建っている中也の詩碑や山頭火の句碑(錦川通りにあるのは「ちんぽこもおそそも沸いてあふれる湯」である)を読み,そのまま「山頭火通り」を,鉄道の線路を挟んで反対側の山裾にある龍泉寺まで歩いた.言葉の周辺はいつも豊かにしておきたい.それで,私はどこに出かけてもなるべく歩くことにしている.ロンドンでもパリでもウイーンでも着いたその日の内にコールテンのパンツとスニーカーを買って,街を歩く.できるだけ乗り物を使わない.乗るなら,バスか路面電車にして,街を見て,風に触れて,音を聞く.そして,食べて呑んでみる.それは,言葉の周辺情報を自分の感覚の底に蓄えておいて,詩と対峙した時に,自分語で感覚的共鳴(emotional fusion)と論理的納得(logical satisfaction)のいく解読がしたいからである.
小説や詩を読むとき,普通,作品の周辺を調べたりしない.調べたくなるのは,作品に惹かれながら,どこかわからないところがある場合,言い換えるなら,自分語に変換して納得することができない場合である.中原中也の「一つのメルヘン」は誰もが調べたいという誘惑にかられる詩の一つらしい.
秋の夜は,はるか彼方に,
小石ばかりの,河原があって,
それに陽は,さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました.
と詩は始まる.いいリズムでエキセントリックな情景が表現されている.が,「秋の夜」なのに「陽がさらさらと射す」とはどういうことか.「小石ばかりの河原」って何.言葉の不可解な組み合わせが不思議な魅力を醸し出して,題も「一つのメルヘン」だし,何か異次元の幻想の世界が描かれているのかなと思ってしまうらしい.ネット上には,この詩に対する勝手読みが星の数ほど見られる.「勝手読み」は詩人の言葉と対峙して勝手に自分の言葉に変換することであるから,読む人によってそれぞれ異なる世界が創造されるのは当たり前で,どれが正しくてどれが間違いということはない.詩の読解もどれに納得して気に入るかである.実際,編集者というプロの篩にかけられて出版されている解読も一様ではない.
小林秀雄は「中原中也の思ひ出」(昭和24年6月執筆,雑誌『文芸』8月号掲載)でこの詩に触れている.「中原の心の中には,實に深い悲しみがあって,それは彼自身の手にも餘るものであったと私は思ってゐる.(中略)彼はそれをひたすら告白によって汲み盡さうと悩んだが,告白するとは,新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである.」(p.286)と彼は書いて,最後に「彼は悲し気に放心の歌を歌ふ.川原が見える.蝶々が見える.だが,中原は首をふる.いや,いや,これは「一つのメルヘン」だと.私には,彼の最も美しい遺品に思はれるのだが.」と言って「一つのメルヘン」を引いている.小林秀雄は,簡潔な文章で中原中也を語り,「一つのメルヘン」を精読したことを「川原が見える.蝶々が見える.」とさりげなく示している.
中原中也の研究者たちがこの詩をどのように解釈しようとしたかは,大岡昇平の『中原中也』(講談社文芸文庫)の中に手際よくまとめてある.その中には「小石ばかりの河原」を「水無河原は恰三が葬られ,現在は中原自身も眠っている山口市吉敷の中原家の墓の傍にある河原」(p. 259)ととらえ,「仏教的な「賽の河原」と思っているのではないか,と推測している.」(pp. 260)人(下関の梅光女学院短期大学の佐藤泰正氏)もあると紹介し,さらに「これは中村稔が早くから指摘していたところだが(「『一つのメルヘン』をめぐって」,『古典の窓』昭和34年1月号),佐藤氏はこの「賽の河原」のイメージの「土着性」に,中原を遂に信仰に達せしめなかった「魂の暗部」を見ている.中原の「精神というものは,その根拠を自然の暗黒心域の中に持ってゐる.・・・・・・精神が客観性を有するわけは,精神がその根拠を自然の中に有するからのことだ」(「芸術論覚え書」)と引用し,その生と歌が「自然にふかく身を浸していること,浸すべきであることと真率に深く感じていた.中原にとって伝統とは,土着性とは,この自然の属性の一部に他ならなかった」と結論している」(p. 260)と引用・解説している.大岡昇平自身は,上の解釈に反発して
しかし「一つのメルヘン」に限っていえば,私はここにはあまり伝統的なものも仏教的なものもないと思う.固体のような光がさらさら射している水無河原に一匹の蝶が来てとまる.それが飛び去ったあと,こんどは自然の水が流れ出す――これは一つのドラマであり,むしろ一つの異教的な天地創造神話ではないかと思われる.
と主張している.このほかに,インターネットで調べると,ある人は「ダダイズムの延長上に創り出された幻想世界であり,原初的な自然を舞台とした世界」と言う.また中には,分析批評を駆使して読んでみせてくれている人もいる.
しかし,小林秀雄を除いて,これらの読みはいずれも詩を介して詩人の心の内をさぐろうとするものである.それも「読み」の一種で,それでも構わないのであるが,本来,詩を読むということは,詩人の伝記的な情報を参照したとしても,言葉と言葉の組み合わせという表層情報を読んで楽しむことであり,その本質は「詩人語を読者語に言い換えて納得すること」である.
日本には,昔から,言葉の表層情報を穿つように読んで理解する「読書百遍」という対処法があった.これはルグイがワーズワースのThe Preludeに対して行ったフランス流の「エクスプリカシオン・ド・テクスト」(精読)」と相通じるものであるが,いつの間にか忘れられている.小林秀雄はいつだったか「読書百遍という様な言葉が,今日,もう本当に死語と化してしまっているなら,読書という言葉も瀕死の状態にあるといっていいでしょう」と書いていたが,気が付いてみると,読者はいつの間にか,発信者にすり寄ってその仕掛けを解明し,真意を伺うことを目指す奴隷になってしまっていた.
符牒による情報の伝達は「名詞」と「動詞」を使うのが基本である.これらを「類比照合・推論」で組み合わせて「符牒列(名詞+動詞)(=事象列)」を作って発信すると,「論理的納得」や「心理的納得」を受信者に与えることが出来る.と同時に,組み合わせ方に技巧を凝らすと「感覚的納得」(心象)も与えることができる.たとえば,『ポケットオックスフォード辞典』で June (六月)を引くと,(June is) associated with roses and midsummer (六月はバラと夏至の月)となっている.この符牒列に形容詞は含まれていないが,「名詞+動詞」の符牒列から「バラの花の美しさ,香りの芳しさ,蜂の羽音の単調さ,夏の夜の爽やかさ,など」が瞬時に心に浮かんで胸に迫る.名詞が巧みに選択されると,名詞符牒に付随するイメージが動詞符牒で統合されて「感覚的納得」を与えるのである.この技法は人間が「言葉」につけた知恵で,昔から人間は「姿・形のないもの・こと」は「姿・形のあるもの」に変えて伝えて来た.
詩人はこれを技巧的に使う.つまり,集合イメージ的に共通な「姿・形のあるもの」を自由に「選択(choice)」して受信者に与え,「新しい統合画像(new integrated images)」を受信者の脳内に創造させて「(無形・非形の)情感(emotion)」を伝えるのである.たとえば,イギリスの詩人Christina Rossetti は目に見えない「風」を見せてくれる.
Who has seen the wind?
Neither I nor you.
But when the leaves hang trembling,
The wind is passing through.
ところで,アリストテレスは「何よりもまして詩人に必要なものは,メタファーを自在に操る力,すなわち,類似性のないものの中に類似を見る力である」(What a poet needs beyond everything else is a command of metaphor, the ability to see similarity in things dissimilar.)と,また,アメリカの詩人ロバート・フロストは「詩というものは,隠喩,あるいは,取るに足りない隠喩表現に始まって,人間の心の深淵に潜む思いに至るものだ」(Poetry begins in metaphor, in trivial metaphors and goes on to the profoundest thinking that we have.)と述べているが,「符牒による想像画像喚起の技巧」(image-evoking artistry in signs)の中で,特に,「集合イメージの類比照合(analogical matching by set-images)」によって無形・非形の「情感」(emotion)を伝える「詩的技巧」(poetic artistry)を「比喩(figure of speech)」と言う.「比喩」には,日本語では「ような」,英語ではlike, as などを表に出す「明喩(simile)」と,それらを裏に潜ませる「暗喩(metaphor)」とがあるが,特に,「暗喩(metaphor)」は文学的な主要な表現技巧の一つと考えられている. たとえば,
人生は旅である.
タミさんは野菊のような人だ
My heart is like a singing bird.
You are a tulip seen today.
She walks in beauty, like the night.
のように,日本語でも英語でも,表層上は
Axは[が]Bx(のよう)である.
Ax + V (e.g. is) + (like) Bx.
Axは[が](Bxのように)する.
Ax + V (e.g. do) + (like Bx)
という形で,二つの要素(AxとBx)から出来ている.しかし,深層的には
Axは[が](xの点で)Bx(のよう)である
Ax + V (e.g. is) + (like) Bx + (in x)
Axは[が](Bxのように)する.[(xの点で)Axは[が]Bxだからである)]
Ax + V (e.g. do) + (like Bx [, because Ax + V (e.g. is) + (like) + (in x)])
のように,最少でも三つの要素から構成されている.「タミさんは野菊のような人だ」を例にすると,
既知情報Ax(野菊)=既知集合イメージx(楚々として美しい)→Ax=x(既知情報)
既知情報Cx(タミさん)=既知集合イメージx(楚々として美しい)→Cx=x(既知情報)
よって
既知情報Ax(野菊)=既知情報Cx(タミさん)¬→Ax=Cx(新情報)
↓
タミさんは野菊のような人だ.(楚々として,美しい)
のように.これは他の例も同じである.
人生は旅である.(一定の行程で,山あり谷ありで,楽しいし危ないし・・・)
My heart is like a singing bird. (happy, pleasant, etc.)
私の心はさえずる小鳥のようだ.(弾んでいる)
You are a tulip seen today. (lovely)
君は今日一緒に見たチューリップだ.(かわいい)
She walks in beauty, like the night. (in quietness)
彼女の歩く姿は美しく,まるで夜のようだ (しめやか)
要約すると,詩の符牒列は,無形・非形の感覚情報(情感)を類比照合規則に乗せた有形の符牒で伝達されるが,その名詞・動詞の選択・組み合わせ方は詩人の感性によるということになる.
作品(符牒列)は,このように,発信者の感性のよる勝手な組み合わせであるが,私たちは符牒列を受信すると,符牒を利用する者の習性で,写真を見るように,自分を無にして発信者の創った符牒列からできるだけ多くの情報を得ようと貪欲になる.たとえば,次のような符牒列に触れてもそうである.
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮れは穏やかです
(中原中也「春の日の夕暮れ」の最初の二行)
これを読んで受信者は「トタンがセンベイ食べて」とはどういうことであろうか,これと次の「春の日の夕暮れは穏やかです」はどのように関係しているのだろうか,この二つの関係がつかめないと詩の心がわからないのではないかと考えてしまう.しかし,発信者と受信者とはそれぞれ異なる「脳内資源」を使うのであるが,受信(聞く・読むということ)も発信者と同じように「類比照合」と「論理的推論」を使う.たとえば,
「タミさんは・野菊のよう(にα)な人)だ」
という符牒列に対して,
新情報C(タミさん)=既知情報A(野菊)→C=A
↓(なぜならば)
既知情報A(野菊)=既知集合イメージB(β)→A=B(β)
新情報C(タミさん)=既知集合イメージB(β)→C=B(β)
↓
「タミさんは野菊のよう(にβ)な人だ」
という「統合創造画像」を創る.(βは受信者の「(感性・経験・知識・見識・想像力などを含む)選択力」である.)このように,発信者と受信者が「共通の類比・推論」を利用するのは,発信者は伝えたいという形の自己拡張願望(plus ultra)があり,受信者にはわかりたいという形の自己拡張願望(plus ultra)があるからである.しかし,α=βであることは一卵性双生児でもない.したがって,受信ということは,「符牒」と「付随する集合イメージ」と「符牒運用規則(文法・修辞法など)」の共通した基盤の上で符牒列を「勝手に解読する」ということである.簡単に言うと,発信者と同じ基盤の上で,受信者が「発信者語の符牒を受信者語に翻訳すること」(創ること)である.たとえば,三島由紀夫は『豊穣の海 奔馬』(新潮文庫pp. 405-6)で,主人公の「夢」の中でのこととして,
彼は密林の庭の中央と思しいところ,灰色の石造の頽(くず)れたテラスに立っている.(・・・・・・)蚊の羽音がきこえる.蠅の飛翔がきこえる.黄の蝶が飛んでいる.青い水滴のような鳥の声がしたたりつづけている.又,奥の奥まで緑の錯雑した森の内部を,狂おしく引き裂くような別の鳥の声がある.蝉が啼いている.」
のような,明喩(simile)や代換法(hypallage)などの修辞的な比喩技巧を凝らした符牒列を創っているが,受信者は
彼は(緑したたる)密林の庭の中央と思しいところ,灰色の石造の頽(くず)れたテラスに立っている.(・・・・・・)蚊の羽音が(五月蠅く)きこえる.蠅の(青い)飛翔(する音が)がきこえる.黄の蝶が飛んでいる.青い水滴のような(ちいさな)鳥の(鳴き)声が(止まることなく水が)したたりつづけ(るように,しつこく鳴き続け)ている.又,奥の奥まで緑の錯雑した森の内部を,狂おしく引き裂くような別の鳥の声がある.蝉が(喧しく)啼いている.
と,勝手に受信者語で翻訳創作して,「事象展開」の他に,音と色彩の過剰(騒々しい・色あざやかな)という感覚情報を付加してよいのである.その翻訳創作が発信者三島由紀夫の意図した音や色彩の想像画像である必要はない.
このように,受信とは,受信者が発信者と共通の「類比・推論」「符牒」と「付随する集合イメージ」と「符牒運用規則(文法・修辞法など)」の基盤の上で,発信者の提示した符牒列に自分の「感性・経験・知識・見識・想像力など」を加味して「勝手に創造する」ということであるとすると,「詩」や世界で最も短い「最短詩:俳句」などは楽しい翻訳創作の素材となる.たとえば,俳句的な構造で出来ている西脇順三郎の詩,
あかまんまの咲いてゐる
どろ道にふみ迷ふ
新しい神曲の初め
(旅人かへらず 113)
は,次のように創作することができる.
(ダンテの『神曲』で,かつて知を求めて森に迷い込んだ人間のように,(現代の人間は知によって荒廃した)あかまんまの咲いてゐるどろ道にふみ迷ふ.(その心許なさ,不安,さらには,知的動物たる人間の宿命的な悲しさは)新しい神曲の初め(である.)
さて,すでに述べたように,小林秀雄は「中原中也の思ひ出」の中で
中原の心の中には,實に深い悲しみがあって,それは彼自身の手にも餘るものであったと私は思ってゐる.(中略)彼はそれをひたすら告白によって汲み盡さうと悩んだが,告白するとは,新しい悲しみを作り出す事に他ならなかったのである.」(p.286)
と,言っていた.これは正しい.中原中也には帰属していたい処から弾き出されたという思いが深い悲しみとなっていて,見たり感じたりする世界を通して,彼はそれを告白したのである.その異境生活者の悲しみを彼は「中原流比喩詩法」で符牒に写した.
そのような中原にとって符牒のキャンバスは,たいてい「(はるか彼方)の空間」であったように思われる.それが「はるか彼方の古里」であったり,「はるか彼方の空」であったり,「はるか彼方の宇宙」であったりした.特に「空」は彼には特別であった.「空」は初期の短歌に現れる.
夏の日は偉人のごとくはでやかで今年もきしか空に大地に
(防長新聞・大正11年8月23日)
後の詩にも幾度となく現れる.
今宵の月はいよいよ愁しく
養父の疑惑に瞳を?(みは)る.
秒刻(とき)は銀波を砂漠に流し,
老男(ろうなん)の耳朶(じだ)は蛍光をともす.
『山羊の歌』の「月」
ゆうがた,空の下で,身一点に感じられれば万事に於いて文句はないのだ.
『山羊の歌』の「いのちの声」
枝枝の挟みかはすあたりかなしげの
空は死児等亡霊にみち まばたきぬ
をりしもかなた野うへは
あすとらかんのあはい縫う古代の象の夢なりき
『在りし日の歌』の「含羞―在りし日の歌―」
あれはとほい処にあるのだけれど
おれは此処で待ってゐなくてはならない
「言葉なき歌」
中原中也の詩の特徴[告白する僕]は初期の作品から現れる.たとえば,
暗の中に銀色の目せる幻の少女あるごとし冬の夜目開けば
(防長新聞・大正12年2月)
これは
暗の中に銀色の目せる幻の少女あるごとし(僕あり)冬の夜目開けば
である.この読み方をすると,彼のダダの詩もなんとかなる.
春の日の夕暮れ
(屋根に雨が当たって)トタンがセンベイ(を)食べて(いる時の音のように騒々しいです,が)
春の日の夕暮れは穏やかです
アンダースローされた灰(のような霞)が蒼ざめ(たような色をし)て(低くたなびいています)
春の日の夕暮れは静かです
(以下略) (pp.20)
次の詩は一連から三連までの「悲しみ」を「悲しい僕」,最後の一連の「悲しみに」を「悲しみに僕は」と置換して読むことができる.
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]に・・・・・・
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]に
今日も小雪の降りかかる
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]に
今日も風さへ吹きすぎる
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]は
たとへば狐の皮裘(かはごろも)
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]は
小雪のかかってちぢこまる
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]は
なにのぞむなくねがふかく
よごれちまった悲しみ[悲しい僕]は
倦怠(けだい)のうちに死を夢む
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]に
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れちまった悲しみ[悲しい僕]に
なすところもなく日は暮れる・・・・・・(pp.88-89)
このような「僕」(中原)は「彼の最も美しい遺品」を描く.勝手読みをすると,「一つのメルヘン」は,次のようになる.
(見上げると)(闇が深い)秋の夜(に)は,はるか彼方(の夜空)に,
小石(のような星)ばかりの,(天の川の)河原があって,
それに(太陽の)陽は,(まるで)さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました.
陽といっても,(それは星に当たって光っているので)まるで珪石かなにかのやうで,
(瞬く星たちは)非常な粉末の個体のやうで,
さればこそ,さらさらと
かすかな音を立ててもゐる(かのように感じられる)のでした.
さて小石の(ような星の)上に,今しも一つの(秋の)蝶(のような僕)が(よろよろ)とまり,
淡い,それでいてくっきりとした
影を落としてゐるのでした.
(いやいや,「これは夢だ,メルヘン(幻想)だ.」)
やがてその蝶(のような僕)が(僕の涙で)みえなくなると,いつのまにか,
今迄流れてもゐなかった河床に,(涙の)水は
さらさらと,さらさらと流れてゐる(ように見えた)のでありました・・・・・・
彼は羽が薄れ動きがおぼつかなく死を宿している秋の蝶(アゲハチョウ)が寂しく見えたから「秋の蝶」を空間に浮かすのである.Michael Riffaterre が Semiotics of Poetry (1978)(斉藤兆史訳(2000)『詩の記号論』)の中で「詩は間接的に事物を表現するということである.別な言い方をすれば,詩は何かを語ることによって別のことを意味している.」と述べたのはこのような言葉の使い方のことであろう.
この詩の「別のこと」は「哀しくて寂しいな」である.
「聞いてわかる,見てわかる,読んでわかる」ということは,このように「相手語を勝手に補って自分語に変換して納得する」ということで,この操作は私たちが符牒列に対して無意識のうちに日頃からやっていることである.以前,「勝手読み」をテーマに議論していたとき,「勝手読みでない読みはあるのか」と突っ込まれた.いい質問だと思って「そう,勝手読みでない読みはない」と答えたとき,会場側から時間だから出て行ってくれと追い出されてしまった.続けて言いたかったことは「でも,勝手読みと意識した勝手読みと,意識しない勝手読みとは異なる」である.私は,「意識した勝手読み」は,作家が全力で作品を創ったように,何かに惹かれた作品を読者も全力で解読したいと好意的な暗黙の了解に基づいて行う勝手な行為と思っている.
[参考に読んだ本]
安原喜弘著・編『中原中也の手紙』(講談社文芸文庫,2010/04/09)
大岡昇平『中原中也』(講談社文芸文庫,1989/02/10)
小海永二編『現代詩の解釈と鑑賞事典』(旺文社,1979/03/01)
小林秀雄『作家の顔』(新潮文庫,昭和36年8月20日)
講談社版・日本現代文学全集68『青野季吉・小林秀雄集』(講談社,昭和37年12月19日)
新潮社日本文学アルバム『中原中也』(新潮社,1985/05/20)
中原中也『中原中也全詩集』(角川ソフィア文庫,平成19年10月25日)
長谷川泰子・村上護編『中原中也の愛』(角川ソフィア文庫,平成18年3月25日)
中原フク述・村上護編『私の上に降る雪は―わが子中原中也を語る』(講談社,1973/10/12)
吉田精一・分銅惇作編『近代詩鑑賞辞典』(東京堂出版,1969/09/15)
関良一『近代文学注釈大系<近代詩>』
太田静一「一つのメルヘン」(国文学・昭40・9月)
三好達治『現代詩講座・第3巻「詩の鑑賞」』(創元社)
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