御殿場高原より 33 「作家」の誕生

「作家」の誕生

 大学に入る前に,叔父さんの家にあった日本文学大系103冊を読んだ.今でも「賞」というものが付いた作品は必ず読んでいる.読む順序は直木賞(物語)が先で芥川賞(文学)は後である.私は言葉は好きであるが文才はない.小学生のころから「作文」が苦手で,「日曜日」という題が出るといつも「日曜日には,学校がないのに,朝早く起きて,歯を磨いて顔を洗って,ご飯を食べました.そして・・・」程度しか書けなかった.ただ,文字を読んだり言葉を聞いたりすることは好きであった.
 小学校6年の時の担任の田中正太先生は九大の教授をやめて,教生(今で言う「教育実習生」で,当時は,たしか,一年ほど実習をした)を二人連れて郷里の飯塚にもどり,飯塚小学校の先生になって私たちの担任になった人だった.戦後,日教組が「我々も労働者だ」と叫んで自らを堕としめたが,私は田中先生を「労働者」と思ったことは一度もない.田中先生は「先生」であった.田中先生は,他の先生からは受けなかった視線を私に注いだように感じた.先生が「私には文才はない」と見た目を私は忘れずにしっかり覚えている.先生というのは恐ろしいものだなと思った.大学の「先生」になって,毎年ゼミの学生を預かり,レポートを書かせていたが,ある年,他の学生とは全く違う文章に出会った.「君,何かに文章を書いているか」と尋ねると,「映画雑誌『キネマ旬報』の編集部でアルバイトをしていて,文章を書かされています」ということであった.何か惹きつけられる完成した文章であった.彼女は,その後,雑誌『クレア』が創刊されるときに引き抜かれて,映画特集で蓮見重彦さんと並んで文章を書いていた.文章を読めばわかるものなのだとはじめて実感し,田中先生も生徒の文章を読んでいて,私の文には何も感じなかったのだとわかった.それでも,六年生の時の先生の目に反発するような気持ちで,小学校を卒業して20数年経って,福岡での学会の帰りに,自分のエッセイ集を持って飯塚市徳前町の先生の玄関先に立ったとき,先生は「名乗るな!」と言ってから,「Iだろう」と私の名前を言った.これを「先生」というのである.今では先生の目は正しかったと認めざるを得ないのだが,田中先生の見立ては六年生の私には悲しいことであったが,私は同時に先生の目の奥に言葉を扱う者の複雑な悲しみのようなものを感じとっていた.それから,同じような目を,高校生の一年の時に文芸部から『呉竹』という雑誌をもらった時,高校三年の時に早稻田の文学部出の国語の先生から「君は何か書きそうだな」と文芸部に誘われたとき,大学生になって同人誌を作った時,それから,大学院生の時書いた文を「評論家の○○さんが褒めてたぞ」と先輩が伝えた時,いくつも見た.それは先頭に立ったことがあったり,先頭に立ちたいと願ったりしながら,挫折して存在を脅かされ,言葉に救われたことのある人の目だった.それは物語作者にはなく,「文学」と言われるものに携わる「作家」から感じられる複雑な悲しげな目であった.私はそんな悲しい目は持ちたくない.言葉は好きだが,言葉を通して書き手の悲しい心の底など見たくない.ただ,言葉の組み合わせから現れてくる効果を楽しみたいと私は思った.その人たちの目は,存在を脅かされたこともなく,「巨人・大鵬・卵焼き」的にのんびりと楽天的に生きていた私には決してつかないだろうと思われる目の色だった.だから田中先生は私をあんな目で見たんだ.「文学」というものは,このように底に複雑な悲しみを持っている奇妙な人たちが作るものらしい.どうしてだろう.そして,いつもの癖で,文化的に想像する.「作家」はどのようにして生まれるのだろうか,と.

 昔,人類がまだ木の実を拾ったりしていたころのことである.女たちが子どもの世話をしながら火の番をしている間,男たちは石や棒を持って,一人のリーダーのもとで集団で森や草原に出て獲物を探していた.そう,今から二万年以上前だろう.フランスのソリュートレで,その頃の集団狩猟の跡が見つかっている.だから,それからさほど離れていない時代のことと思っていい.その頃のリーダーは本当の実力者で,走るのも速いし,石を投げるのもうまいし,棒を投げるのも上手であった.「あっ,あそこにイノシシがいる.お前とお前は右から回れ.お前とお前は左から喚声をあげろ.残りは俺についてこい.あの崖っつぷちに追い込んで石を投げる.いいな!」みんなリーダーの命令に従った.彼の言うとおりしていれば必ず獲物を捕らることができることを知っていたからである.
 ところが,そのリーダーが岩につまずいて,脚を折ってしまう.今と違って,外科的な処置ができない.彼は走れなくなる.ということは,今までもっとも有用価値のあった男の有用性がゼロになるということである.
 当時は,働くことのできない者に分け前はない.昨日までのリーダーも例外ではない.彼は集団にとって無用な者,つまり,仲間はずれ,アウトサイダーとなったのである.
 他の男たちが狩りにゆくのを,彼は女たちと一緒に見送らなければならなくなる.彼は留守を守っている女たちの回りをうろうろすることになる.
 ある日,退屈している女たちに彼は話を始めた.
 「この前食べたイノシシ,おいしかったろう? あれはね,こんな風に捕らえたんだ.あんたの旦那,細くてひょろひょろで,走るのは遅い.でも,声は大きいよね.それでさ,旦那に風下にまわってもらって,イノシシの後ろから大きな声で叫んで貰ったんだ.イノシシの奴,びっくりして跳び上がって,こっちにまっしぐらさ.俺たち,木と木の間にツタの綱張っていたんだ.奴は足を取られてどどっつと倒れたところ,皆で棒で叩いて仕留めたんだ.あれは旨かったよなあ」
 狩りから帰ると,男たちが獲物をさばきながら,どんな風に捕らえたか,自慢げに語り合うのを女たちは切れ切れに聴いていた.しかし,狩りの全てを順を追って話してもらったのは初めてであった.女たちは火を中にして彼の回りに集まって話を聞いた.彼は事実をできるだけありのままに語ろうとした.
 「出来事をありのままに語る・・・」これはリアリズムの発生であり,「文学」というフレームの誕生であるが,同時に,それは現実の出来事に方向性と意味を与えて物語を創るということ--自分の視点で世界を整理するということ--つまり,「虚構(fiction)」の始まりということである.
 女たちにとって,退屈な時間が楽しい時間に変わった.彼は次の日には別の狩りの話をした.その次の日には,また別の話をした.話には,そのつど工夫が加わる.ある時には生々しく,またある時には回想的に.
 しかし,オランダの中世学者ホイジンガが「ルネサンス・リアリズム」というエッセイの中で言っているように,「リアリズムは究極的にはリアリズムではなくなる」のである.最初は出来事に即して話していた彼も,クローズアップやデフォルメのテクニックを使い始める.つまり,外面的にいくら詳細に説明しても事実は伝わらないこと,言い換えると,いくら出来事を詳細に語っても,所詮,それは「虚構」にすぎないことに彼は気がつくのである.と同時に彼は「虚構」を使うことによって,「虚構」を敢えて創ることによって,「意図して伝えたいこと」を盛り込むことができることに気がつく.それで,彼は自分のイマジネーションを利用するだけではなく,聞く者のイマジネーションも最大限に利用しはじめる.
 「文学」の誕生である.彼は意図して話を作り始めるのであるが,これでは,まだ「作家」とは言えない.
 彼は作り話をまるで見てきたように熱心に語る.女たちの中に目を輝かす者がでてきて,やっと自分の存在価値が生まれかかってくる.しかし,男たちが獲物をかついで帰ってくると,女たちは彼の話などどうでもよくなって,獲物をかついだ男たちの方に走っていってしまう.
 彼は一人取り残される.みんなが獲物を分け合い,食べ終わるのを待っていなければならなかった.働きのないアウトサイダーの彼の分け前はないのである.
 彼が,どんなに話を工夫しても,獲物がくると女から取り残されるという事態が幾度も幾度も続いた.
 ある日,一人の女が,身体の具合でも悪かったのか,夫から分け与えられた肉が食べきれなくて,そっと,彼に渡す.
 それを見ていた,他の女が,次の時には食べる前に,自分の分け前の一部をそっと彼に分け与えた.男たちが留守にしている間,彼はおもしろい話をして,自分たちを楽しませて,退屈を紛らわしてくれているからである.
 そんなことが何回か続くうちに,「物語作家」としての彼の存在に男たちは気がつく.リーダーになっている男は,女たちがなぜ肉を彼に渡しているのか知るのである.
 「そう言えば,以前にくらべると,女たちや子供たちがいきいきしているし,なにしろ,彼の話には‘我々の真実’が含まれているらしく感動的であるらしい」と男たちは言うようになる.
 そのころになると,獲物を捕らえるのが上手になり,皆に分けても,まだいくらかあまるほどになっていた.ある日,獲物を持って帰ってきた男たちは,少しだが,「物語作家」の分け前を作る.そして,男たちは
 「この次も,分けて与えよう」
と決める.
 肉体的な働きのないアウトサイダーが,女たちだけでなく,仲間の男たちにも存在を認められる―ここに初めて「作家」が誕生するのである.
 しかし,彼はもはやその喜びを素直に笑顔で見せるほど単純ではなくなっている.足を折ってから「作家」として認められるまでの長い苦しい辛い経験,あのひもじい思い,口惜しさを彼は決して忘れられなかった.
 そこで,彼は作家としての地位を確固たるものにするためばかりでなく,話にますます工夫を加えていく.それで,わかる人にはわかってもらいたくて,彼は「仲間の言葉」,つまり,所属する集団の言葉を使うのであった.
  これが「作家」の誕生である.「作家」とは,肉体的に,あるいは精神的に十全でない人,十全でないと意識している人である.もう少し抽象的な言い方をすると,何らかの意味で現在の自分に,自分の存在に,満足していない人である.
 たとえば,歴史上最大の叙事詩人ホーマーは目が見えなかったと言われている.また,日本においても「語り部」稗田阿礼もそう言われているし,平家物語を語る琵琶法師も,また,東北・北陸のゴゼも目が見えない.
 さて,「作家」は,自分以外の人にもわかって欲しいと望む.そのために集団の言葉を使って読者の心を動かそうとするが,誰にでも共感・感動してもらえるように語るわけではない.「本当にわかる人」にだけ伝えたいと思うのである.たとえば,かつて倉橋由美子氏は朝日新聞の紙面で「心が通じ合う読者だけに通じればよい」というような発言をしたことがある.
 だから,「作家」とその作品を通して付き合うには、「作家」が言葉に敏感であるように,読者の方も「言葉に対する鋭敏な感覚と不断の訓練」が必要である.たとえば,次の「作家」は,さりげなく文章の中に自分の持ち味を潜ませている.

 生椎茸の籠を抱えてる娘を呼びとめ,路をきくついでに今日は開港慰霊祭はないのかときくと,今日はお祭りはないが仮装行列があると言った.どんな仮装行列かときくと,それは行列に出る有志の青年たちが秘密にしているから自分のような真面目な娘にはわからないと言った.(下田行 井伏鱒二全集第九巻 p.122)

終わりのところの「自分のような真面目な娘には」という表現がある.娘は単に「私にはわかりません」と答えたのかもしれない.あるいは,「自分ような真面目な娘には」と答えたのかもしれに.いずれにせよ,この「作家」は,自分で加えたか,あるいは,娘の言葉を聞きのがさずにか,自分の文章に加えた.仮装行列というと,なぜか女装になる.その準備をしている青年団のたまり場,いくらか卑猥な陽気さ,そこへ差し入れよと何か届けるちょっとませた娘.そういう娘に対する同性のうらやましくもすました目.さり気なく加えた「自分のような真面目な娘」という言葉から,私たちはこの作家のとぼけた資質を知ることができる.
 ただ,だからと言って,読む側はむやみに敏感になりすぎて焦らないこと,いわゆる「早とちりをしないこと」も大切である.疑問を感じてもすぐに結論を求めないで,そのまま心に留めておくこと.データが溜まって,自然に「実相」(realities)が沸き上がってくるまで待たなければならない.こういう心の待機を,イギリスの詩人ジョン・キーツ(John Keats)は negative capability と言った.キーツは「小さな自我をすてて,ゆったりと四囲のあるがままを受け入れ,不確実や矛盾があってもこれを無理に合理化しないでいられる性質」(外山滋比古『俳句的』p.31 みすず書房)で,「これが詩人に偉大な創造を可能にする秘密」と考えたが,偉大な(いや,理想の)読者にも,同様にこれは必要なことである.なぜならば,読者というものは「才能を外の作者に預けている作家」だからである.読者にも「心の待機」は必要なのである.たとえば,次のように.

 私は,夕食のあとでひと眠りしてから,紅茶を飲むのが好きである.
  夕食の前には,たいていウイスキーをダブルの水割りにして,一杯か二杯飲む.空き腹に飲んで食事をするから,酔いがほどよくまわり,満腹になるとおのずから眠気をもよおして来る.そこで寝椅子に横になり,レコードを聴きながら,一時間ほどぐっすり眠るのである.
 眠るといえば,私はだいたいどんな場所ででも,眼をつぶっていればすぐ眠れる.列車のなか,飛行機のなかは言うに及ばず,自動車のなかでも研究室のソファの上でも,眼を閉じて五分とかからぬうちに,うとうとしはじめる.そうして十五分でも,二十分でもほぼ熟睡することができる.
 これは学生のころ,結核の療養をしているあいだに,いつのまにか身についてしまったくせだが,なんといっても,どんな眠りが愉しいといっても,夕食のあと一時間ほどの眠りくらい愉しいものはない.この,音楽を聴きながらの食後の眠りのうちに,昼間の時間はどこかに消えてしまい,それと同時に,あのわずらわしい社会生活というものも,千里の彼方に遠ざかってしまう.
 眼を覚ますと,二三分寝椅子の上でぐずぐずしてから,私はシャワーをあびるか顔を洗うかする.そして,おもむろに夜の紅茶を飲むのである.
              (江藤淳『夜の紅茶』北洋社 pp.152-153)

 この文には奇妙な副詞が使われている.最後の「おもむろに」である.しかし,なぜ作者がこの言葉を使ったのか結論は出さないでおく.さらに100ページほど読み進むと,次のような文に出っくわす.

 北回りの日航機で,アンカレッジまで来たら,空港のロビイに日本人旅客用のマッサージ椅子がいくつも置いてあった.出張の帰りなのか,観光団の人なのか,何人かの中年の日本人男性がこの椅子に坐って,ガタガタ,ヒョコヒョコとやっている.その顔もまた温泉旅館のロビイで,マッサージ椅子に坐ってガタガタ,ヒョコヒョコとやっている人の顔と同じである.
 疲れているのだなあ,と私は思い,それにしても,あと六時間四十五分で羽田に着くのに,なぜそれまで我慢できないのだろう,と不思議に思った.休息にも,いうまでもなくスタイルというものがある.・・・(同上書 p.284)

 ここまでくると,江藤淳の心的態度が自然に浮かび上がってくる.「休息にもスタイルというものがある」と言っているのである.この人はスタイリストなのだ.人間はどんなに疲れていても,休むときも,意志と理性ある人間でなければならない,と江藤氏は思っているのである.だから,紅茶を飲む自分の姿を,距離をおいて客観的に見ているのである.それで,自分の動作・姿に対して「おもむろに」という表現を使ったのである.「ゆっくり」は動作である.「おもむろに」はスタイルである.このスタイリストぶりは,彼の生活・評論を覆っている.
 集団に存在が認められ,「作家」が誕生する.ただ,この「作家」はひもじい思いをした口惜しさを決して忘れない.そこで,「作家」は自分の地位を確固たるものにするためばかりでなく,ひもじい思いをした恨みを心に秘めて,ますます語る話に工夫を加えていく.
 「作家」という文化の担い手は,このようにどこか充分でない人,それが肉体的であっても,精神的であってもよい.現在の状態に何か欠けていると思っている人なのである.その意味では.ちょっとヘソマガリである.したがって,皆に読んでもらいたいと思いながら,すっかり分かってもらいたくないと思っている.心の通じる人だけに分かってもらいたいと思いながら,すっかりわかるなんてあり得ないとも思っているのが「作家」である.心が複雑なので目が複雑である.たぶん,諦観して静かな澄んだ目になる人はほんの一握りだろう.だから,読む側は書き手の心など探らずに表層の言葉を「勝手読み」せざるを得ないのである.これが、私の「文学」に関わる基本のルールであるが,これは「文学」だけでなく,「文化」を考える際のルールでもあると思う.大学院に入るときの面接で,キーツのnegative capabilityを私なりに言い換えて 「私は心を無にして言葉と付き合いたい」といったら,面接の教授たちは「君,文学は禅とはちがうよ」と笑ったが,それは私の「勝手読み」の原点であり,言葉と付き合いながら複雑な目にならないための方策でもあった.

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