御殿場高原より 35 イクとオオ僕 2

イクとオオ僕 2

 イクを失って一ヶ月が過ぎた.その間に,小さいときから静岡でイクと暮らしていた甥や姪が来て,家の中やイクの持ち物の整理をしてくれた.私は机についても何も手が付かず,ただ,書斎の北側の窓から紅葉の若葉や,ヤマボウシの花を見ていた.箱根バラも咲いて一晩で散っていった.その間にもう一つの死が起きた.イクに花を贈ってくれたので,電話でお礼をしたばかりの,イクの実兄で彫刻家の掛井五郎の奥さんの芙美さんがその電話の二日後に亡くなった.死はどうも突然やってくるものらしい.「イク,次はオオ僕かもしれないよ」それでもいいと私は思っている.
 この十数年の間に,イクは論理的に考えることが出来なくなっていった.したがって,単文は作ることができるが複文を作ることはできない.また,次に何をしていいかわからなくなったし,前に言われたことも覚えていない.ときどき「静岡(実家)に帰りたい」と言う.このセリフは若いときからよく言っていたが,最近になってその意味を知った.今頃その気持ちを知るとはなんて長いこと誤解していたことだろう.これは自分が私の迷惑になっていると思ったときに,思わず出るらしい.実家が懐かしくて帰りたいではなかったのである.「静岡にはもう何もないよ」「えっ,ママはいないの?」「もう20年も前に死んじゃったよ」イクは自分がオオ僕の迷惑になっていると思っているらしい.ときには姉や兄のことを思い出すらしい.「いさほちゃんと話したい」と言うので電話をかけてやると,「いさほちゃん,元気?」と言うが,後が続かない.「五郎ちゃんに会いたい」「五郎ちゃんも死んだよ」「いつ?」「去年の暮れかな」「そう」「もう,生きているのは,こずえさんといさほちゃんと郁の三人だけだよ」それでいて,静岡の実家の住所は覚えていて,時々「鷹匠町三丁目80番地」と言ったりする.粗相をして便座に座らせられて,汚れた介護パンツを始末している私を見ながら,「ごめんね,オオ僕.私,駄目なのわかっている」と言う.「大丈夫だよ,イク.オオ僕がついてる」と会話をしながら二人で暮らしてきた.イクは何もかもわからないわけではないのである.私はイクをちょっと欠陥のある今までのイクとして暮らした.イクがいたから私は積極的に生きていられた.イクは朝5時半頃起きてくる.お風呂に入れて,木綿の長袖のシャツを着せ,昼間用の介護パンツ,長い股引,靴下をはかせてから,長いドレスを着せた.ドレスはイクが元気であったころ,東京で仕事をする私についてきて,京王デパートの「タカトミ・エレガンス」で買った生地を持ち込んで,私が楽に着替えさせることができるような形で洋装店で10着ほど作らせたものだ.私たちは夕飯は食べなかったが,朝と昼は食事を作って一緒に食べた.最近は食べ方が下手になって,口元が汚れた.それをティッシュで拭いてやっても,イクはおとなしく拭わせていた.イクは大きな幼児になって,かわいかった.食事が終わるとイクは自分なりに立ち上がり方を工夫して立って,腕を伸ばして手を求めた.手を引いて,食事の部屋からベッドのある書斎まで連れてくると,イクはゆっくりベッドに横になった.羽毛布団を掛けてやるとイクは目をつぶった.毎日,こういう生活が続いた.時々腰が痛くなるのでつらいこともあるが,こちらの身体の調子がよいときには,これらの作業は苦にならない.それでも,イクの世話に全力が注げるように,とは日常の雑用をして疲れないように,以前から来てくれている通いのお手伝いさんに,週に二日来て掃除と洗濯をしてもらうようにした.そうすれば,時間的にも気分的にも私に余裕ができて,いらいらしたり,イクをせかせたりしないですむ.私は「オオ僕,オオ僕」と頼りながら一生懸命生きている郁に,いつもやさしく接してやりたかった.
 患者のおむつを替えたり,患者をお風呂に入れたり,患者に食べさせたりというような単発の仕事は介護ヘルパーにも出来るし,介護保険でまかなえるようである.しかし,上に書いたようなイクとの生活は介護ヘルパーにはできない.こういう介護生活は一緒に暮らしている家族にしか出来ないが,保険の対象にはならない.そういう施設に入れればいいのだろうが,調べたところによると,施設によっては,介護の作業がしやすいように髪は短く切られるという.場合によっては,排便の始末がしやすいように陰毛も処理されることがあるという.今でも枕元のテーブルに櫛を置いていて,たまに長い髪をとかすイクを,そんな姿にしたくない.私は,「きれいね.私,この庭,好き」とか「おいしい」と単文で表現できるイクの感性を大事にしてやりたいのである.が,こういう介護生活は机上で設計された介護保険では想定外のようである.
 認知症も程度がいろいろあるだろう.したがって,その対応の仕方も多様であろう.しかし,イクのような場合には,自分の慣れ親しんだ環境でいつも一緒にいる人と暮らすのが一番のようであった.たとえば,あるとき,ちょうど訪問看護師が来ている時におしりを汚した.私にはおしりを黙って洗わせる.その時には看護師が手伝ってくれた.すると,イクはその状態を「これは地獄だ」と言って顔をゆがめた.認知症になっても感性は失われず,普通の人間と変わらないこともあると思う.したがって,患者の処理ばかり考えるのではなく,認知症患者と家族の関係を総合的に捉えて,家族が元気で世話が出来るように,対家族の視点を加える支援,家族の雑用をできるだけ軽減させる支援という項目も介護保険では考慮するべきではないだろうかと思った.
 今の制度は,事態をカテゴリー化して対応をパターン化しているように思える.カテゴリー化と対応のパターン化はコンピュータには重要であるが,フローチャートを作ることに慣れて,いつの間にかそれに影響されて,人間の思考も判断も,単純にカテゴリー化とパターン化されてきたように思われる.そのせいか,事態に対応する設計が人間として思慮が浅くて単純で場当たり的あるように感じられる.制度設計には事態を全体的にとらえる洞察力が必要なのだが,それが欠けている.
 私も「独居老人」になってしまった.真っ先に考えたことは,いざというときにどうするかであった.前に心筋梗塞になったとき,イクはもう電話をかけることが出来る状態でなかったので,階段を這って降りて自分で119番に電話をした.今度の時も出来るか.出来なければ,私の死体を週に二日来るお手伝いさんが見つけることになる.お手伝いさんに連絡の手順を教えて置かなければなるまい.セコムに,握れば救急車を手配するシステムを付けてもらわなければなるまい.そして,連絡先をいつも見えるところに置いておかなければなるまい.近頃,結婚しない人が増えている.二人で,あるいは家族で,食事をする楽しさを知らない独居老人予備軍が増えているようである.その人たちは.年をとったとき自分が人間らしく過ごせる形態を想い描いているのだろうか.教えて欲しいものである.人生百年,本当にうれしいことなのだろうか.

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