御殿場高原より 27 「全会一致」という嘘

「全会一致」という嘘

 世界中で「民主主義的な政治形態」が採られている.ロシアでも,中国でも,あるいは北朝鮮でも,日本もアメリカも民主主義国である.候補者が出て選挙があって議会があれば形態は「民主主義」と思われている.しかし,現実の世界で本当の民主主義が実践されたのは,敬虔なピューリタンの一派(信教の自由を求めてアメリカに渡った教養ある礼節をわきまえた人たち(civilized citizen)であった)が,アメリカの新天地に小さな集落で生活をしたほんのわずかな期間にすぎないと言われている.すぐに集落に敬虔なるピューリタン(とは,完全は神の世界のみで,有限たる人間の世界にはないと理解していた知的な賢い人たち)以外の一切れのパンのためには魂も売ってしまうような人たちが混じってきて,民主主義は消えた.民主主義はこんなに壊れ易い形態なのだ.
 民主主義とはどういう体制なのか君主制という政治体制と比べてみればわかる.君主制は君主が「おまえは総理大臣になって全体の責任を持て.おまえは国土大臣として国土を担当しろ」と「君主が主人」だから君主制なのである.したがって,「賢い君主」が采配を振るえば「いい社会」ができる.「愚かな君主」が上に立つと「ひどい社会」が出来る.民主主義は「民(たみ)」が「主人」であるから,「いい社会」を創るのは「賢い民」である.「賢い民」が「その意を汲んだ賢い代議人」を選び出せば「いい社会」になる.「愚かな民」が「愚かな代議人」を選び出すと「ひどい社会」になる.あるとき「愚かな民」が「愚かな代議人」を選んだために,労働人口の60%がその日暮らしをする国と同じ労働形態に変わって,かつては識字率が世界で飛び抜けて高く礼節をわきまえた希有な人々と言われた国民が,長いスパーンの人生設計ができなくなり,刹那的に稼ぐことに追われ,少子化を加速させることになった.民族の固有性を無視して真似て横並びでにすることは愚かなことである.民主主義体制において最も大事なことは「賢い民」が「賢い代議人を選ぶ」ということなのである.「賢い民」に支えられている民主体制の国は無闇やたらに他人の日常生活を壊すようなことはしない.民主体制でも「愚かな民」で作られた国では,一人に代議人の勝手に妄想した恐怖のために,あるいは過去の失った栄光を取り戻そうという妄想のために他国の日常を破壊する.昔,こういう人たちを日本では「人非人」と言った.
 アメリカのピューリタンの集落の民主主義がすぐ壊れたのは,神から与えられた糧に感謝し貧しくとも正しく生きたいと願う民(完全なる神を信仰する敬虔な民)とは異なる「金のためなら何でもする金の亡者」の数が増えて,「賢い民」が少数派になったからである.現実の世界では,グレシャムの法則通り,「悪貨は良貨を駆逐する」のである.人は食べないと生きていけないという自然の法則の中にいるので,人間としての明日の理想より動物としての今日のパンを求めても仕方が無い.そして「民主主義」は「今日のパンの民による民主主義」に堕ちる.「善き民(civilized citizen)」は知的で控えめであるが故に,動物的「怒声・無知・蛮行」には弱い.自然の法則によって「賢い善き民」でもいつ「愚かな民」に変わるかわからないのである.「一切れのパン」のために「愚かな民」にならないように,言い換えると,「礼節を知る賢い民による正しい民主主義」を守るためにか,日本国憲法第25条には,第一項に「すべての国民は健康で文化的な生活を営む権利を有する」という規定があり,第二項に生活保護とか社会保証などが制定されている.これらの条項はアメリカの民主主義をお手本にしたものではない.ドイツ帝国のワイマール憲法の第151条がベースになっている.ただ,ワイマール憲法のこの項目は「経済生活の秩序,経済的自由」(経済生活の秩序は,すべての人に,人たるに値する生存を保証することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない.各人の経済的自由は,この限界内においてこれを確保するものとする)に関するものであるが,GHQの憲法草案に採用された森戸辰男らの「憲法研究会」の「憲法草案要綱」では「健康で文化的な生活・・・」と変わる.この「文化的な生活」という言葉の中に,私は「教養豊かなピューリタンの知性」の影を感じる.これは多分,森戸が旧制第一高等学校で新渡戸稲造の倫理の講義に感銘を受けたからではないかと思う.したがって,この第25条は「生存権」と言われているが,私は抵抗を感じる.森戸たちが民主主義には「衣食足りて礼節を知る民」が必要と認識していたかどうかは知らないが,民主制を考えた人ならわかっていたのではないかと思う.ただし,国民の納める税金を使って国に「衣食の足る文化的な民」にしてもらう権利あるなら,その恩恵を受ける民には「賢い礼節を知る民」になる義務があるという論理が背後にはあったかとなると疑わしい.なお,日本国憲法第25条の第二項は,マッカーサーの命によってGHQ民政局行政局所属のC.F.サムス准将が作ったのであるが,たぶん,これの根底にあるのはキリスト教による隣人・貧者への救済精神だろうと思われる.まさか「ノブリス・オブリージュ」(noblesse oblige)ではあるまい.
 ところで,ピューリタンの「完全で絶対なる神」という概念はアダムとイブが知恵の実を食べる前の「前人間」(pre-human)の時には存在しなかった.知恵の実を食べてアダムとイブは人間(human)になり,無限と有限,完全と不完全を認識する知性を持つようになった.そして,「神の無限と完全」は有限・不完全な人間の憧憬となる.時には「神の無限と完全」を手に入れようという狂人も現れるが,「現実の人間社会において傷一つない完全はありえない」という意識は外からは見えないが,欧米の文化の底に潜んでいて,社会を支えている.それを教えてくれる「絵本」と「ドラマ」がある.
 シェル・シルバースタイン(Shel Silverstein) というヒッピー風の男の書いた『大きな木』(原題 The Giving Tree, Harper & Row, Publishers, New York) という絵本である.1964年にアメリカで出版されて以来,アメリカはもちろん,ヨーロッパでもよく売れた絵本で,日本にも入ってきている.
 こんな話である.

 一本の(リンゴの)木があって,一人の男の子と仲よし.男の子は毎日木のところへやって来て,木と遊びました.男の子は木が大好きでした.木も男の子が大好きでした.
 そのうち,男の子は大きくなり,あまり遊びに来なくなりますが,ある日,ひょっこりやって来ます.木はまた幹にのぼったり,枝にぶらさがったりして遊ぶようにといいますが,男の子はそれよりも買い物がしたいからお小遣いがほしいと言います.木はリンゴをもぎとって町で売るようにと言います.男の子は木によじのぼって,リンゴをみんなもぎとっていきます.木はそれでうれしいと思います.
 それから長い間,男の子は木のところへ来ませんが,ある日,またひょっこり現れます.木はうれしくてたまりません.木は男の子に遊んでいくようにとすすめます.ところが男の子は,お嫁さんがほしい,家がほしいと言います.木は枝をあたえます.男の子は家を作るために木の枝を全部切りはらって,もっていってしまいます.木はそれでうれしいと思います.
 また木は長い間一人ぼっちですごします.男の子がひょっこりもどって来ます.そして,男の子は,年はとるし,悲しいことばかりなので,舟でどこか遠くへいきたいと言います.そこで,木は自分の幹を切り倒して舟を作るようにすすめます.男の子は幹を切り倒し,舟を作って行ってしまいます.それで木はうれしかった,・・・.
 長い年月がすぎて,男の子がまた木のところへ帰って来ます.木は何も与えるものがなくてすまないといいます.男の子はもう何もほしくない.坐って休む静かな場所がありさへすればいいと言います.それを聞いて,木はこのふるぼけた切り株にこしかけて休みなさいと言います.男の子は,木のすすめに従います.それで,木はうれしいと思います.

 話はこれでおしまいである.語り口は静か.しかし,日本語版の訳文には一か所,気になるところがある.
 日本語版のカバーには「この本は,一本のりんごの木が一人の人間に限りない愛をささげる美しくも悲しい物語である」と紹介してあり,英語版のカバーでは"This is a tender story, touched with sadness, aglow with consolation."と紹介してある.欧米的に読むと,この絵本は確かに「美しくも悲しい物語」である.しかし,何が美しいのだろうか.また何が悲しいのだろうか.限りなく愛をささげることが悲しいのだろうか.何もかも失ってまでも愛することが美しいのだろうか.
 世界中で売れているということは,この物語に多くの人が感動するからである.どう感動したのだろうか.日本語版の訳者(本多さん)は,「あとがき」の中で,「何が,読者の強い関心をそそることになったのであるか.絵の持つ不思議な魅力も捨てがたい.しかし,なによりも,それは,児童書に珍しく,背後に一つの確固たる思想が横たわっていること,これをおいて考えられまい」と述べたあとで,次のように解説している.

 『自由からの逃走』(Escape from Freedom 1941) の著者エーリッヒ・フロムが,かつて愛を論じたとき(『愛するということ』(The Art of Loving 1956) 「愛とは第一に与えることであって,受けることではない」と主張したのを記憶している人も多かろう.これこそ,物語に貫流する中心的な思想なのである.しかし,「与える」とは何か.何かを断念することか.いや,そうではないとフロムは言う.「与える」ことは人間の能力の最高の表現なのであり,「与える」という行為においてこそ,人は自分の生命の力や富や喜びを経験することになる,と考える.一本のリンゴの木は,この主張そのままに,ひとりの友達に,自分の肉体を削って,木の葉を与え,果実を与え,枝を与え,幹を与え,すべてを与える.母性の愛さながらに・・・.しかも,ここで,もっとも重要かつ微妙な問題は,この「与える」行為に,犠牲の行為を見てはならないという一点であろう.犠牲には悲劇的な感情がつきまとうのが常であるが,りんごの木が,ただひたすら喜びだけを見いだしていたことに読者は注目すべきである.すなわち,エーリッヒ・フロム同様,シルヴァスタインにとっても「与える」ことは,溢れるような生命の充実を意味しているのであって,犠牲的喪失を意味しなかった.こうして,一個の切り株になっても,なお「与える」ことを忘れないりんごの木に,言い知れぬ感動があるなら,その感動こそ,「犠牲」ならぬ真の「愛」のもたらすものにほかならないからである.

 そうだろうか,シェル・シルヴァスタインは「愛とは与えること,犠牲を伴わない無償の喜び」「与え尽くす母の愛」・・・と言っているのだろうか.
 彼は,りんごの木が男の子に幹を与える個所を

 And so the boy cut down her trunk
and made a boat and sailed away.
And the tree was happy... but not really.

と書いている.「それで,木はうれしかった」の次は「・・・でも本当はうれしくなかった」で,本当は not happy ,つまり,悲しかった,のである.(本多さんは工夫して「きは それで うれしかった だけど それはほんんとかな」とぼかしている.新たに訳された村上春樹訳では「それで木はしあわせに・・・なんてなれませんよね」と,やはりぼかしている.
 人間の世界において無限の完全な母の愛などない,心を痛めながら愛する,そのことは,私たちは人情噺として知っている.馬鹿な息子と知りつつ息子のいいなりになる愚かな悲しい母・・・.シルヴァスタインもそのことを承知していて,物語の他の部分をすべて And the tree was happy で終わらせて,一個所だけbut not really とつけたのである.完全なる愛など人間にはないということが極めて単純な物語の中で端的に語られているから売れたのである.それほど,この一個所は極めて重要な意味を持っている.
 私たちは「完全とは完璧なもの,傷がないもの」と思いたがる.「完全無欠」を求め「全会一致」をよしとする.しかし,欧米では「完全」をそんな風に考えない.
 欧米において「無欠で完全」は一つの願望であり,ギリシャ思想ではイデアの世界である.そして,それはキリスト教の教義では神の世界である.したがって,当然,現実の世界の完全は「無欠」ではなく,最高でも一つは傷があることなのだ.たとえば,民主主義ではよく多数決という裁定をする.これは現実の世界においては最良の決定である.全員が一つの意見にまとまったら,それは異常事態と見なし恐れる.反対意見があってこそ裁定は「完全」となるのである.
 だいぶ前だが,夜十一時頃,『ペイトンプレイス物語』というアメリカのテレビドラマが流されていた.ペイトンプレイスはアメリカの東部の村で,村人は敬虔なピューリタン,村の運営は直接民主主義,という設定であった.
 ある時,敬虔なクリスチャンの村で起こってならないことが起こった.養父が義理の娘を犯すという事件が起こったのである.
 敬虔な村人たちは,そんなことはなかったことにする.しかし,編み物をもって人が集まると,それが話題になり,ひそひそと語られた.
 散歩の途中に犯された娘とすれちがうと,急に無言になり,通り過ぎると振り返る・・・という状態が続く.
 村に一つしかない学校の校長の娘が,この事件を小説に書く.ニューヨークの出版社に送ると,その会社の社長は,アメリカ社会の病根をえぐる小説として,それでも控え目に出版する.
 村の人たちも読む.
 あってはならない事件が描かれている読んではいけない本を読んで,村人たちは村の恥じをさらしたといって,無言の圧力を娘にかける.
 校長である娘の父親は学校図書館に入れて,みんなが読むべきだと考える.
 ところが,学校の理事たちは,それに反対を表明する.どうしても図書館に入れるというのであるなら,校長を辞めてもらうと言う.
 この村は直接民主主義で運営されているから,校長先生を辞めさせるというような重大事項は,村人全体からなる村会で決めるとこになる.
 村会には乞食のおじいさんも参加して,二階から討議の様子を聞いている.
 理事たちが反対意見を述べる.
 校長先生は,なぜ,その本を子どもたちに読ませたいか説明する.
 出版者の社長もニューヨークから呼ばれて証言をする.
 当の娘も出席して,村の人たちが興味本位でこそこそ話題にしていてたまらなかったこと,本が出版されてむしろすっきりしたことなどと発言する.
 議論は出尽くし,議長は「本を学校図書館に入れることに賛成な人,すなわち,引き続き校長先生に学校を任せたいと思う人は起立願います」と言う.
 当事者,すなわち,理事と校長先生を除く全員が,二階の席の乞食のおじいさんも起立する.
 議長が,見回して,全員起立しているのを確かめて,槌を打ち降ろそうとする.
 乞食のおじいさんは全員起立しているのを見て,すーっと坐る.
 議長は「全会一致で・・・」と言いかけて,乞食のおじいさんが坐るのを見て,「賛成多数で,本を図書館に入れ,校長先生には引き続き学校を任せることに決まりました」と宣言する.
 まず最初にうれしそうに,大きく拍手したのは二階の乞食のおじいさんであった.そして,彼はつぶやくのである.
 「ここで,私が立ったら,議決はうそになる」
と.
 なぜ,おじいさんは坐ったのか?
 繰り返しになるが,欧米において完全無欠であるということは,一つの願望であり,イデアの世界である.そして,キリスト教の教義から見ると,完全なる世界は神の世界にしかない.現実の人間の世界に完全無欠があったら,それはうそなのだ.だから,このおじいさんにとって,完全とは最低一つは傷があることなのである.
 おじいさんは一つの傷になったのである.それで議決は完全でない人間の現実の世界におけるもっとも正しい議決になった.
 シェル・シルバースタインは,子供の言うことは何でも聞く嘘の理想の母性愛を描きたかったのではない.「でも,ほんとうはうれしくなかった」という言葉を一つ加えることによって,リンゴの木の与える行為を「人間次元における完全なる愛」にしたのである.そして,読者は,愚かな夢物語としてではなく,限りなく愛したいと思いながら果たせない現実の世界の愛と悲しさとオーバーラップさせて感動する,「そう,そうなんだよ」と.
 キリスト教はヘブライズムの動的思惟(絶対・完全)とヘレニズムの静的思惟(絶対・完全への知的探求と憧れ)との結合体である.そして「知的探求」の原点は「神知」(ソフィア)の範囲と「人知」(ドクサ)の範囲,どこまでが「神知の及ぶ範囲なのか」,どこまでが「人知として許される範囲なのか」を極めたい,そして「神知に近づきたい」という願望である.正しい民主主義はこういう願望を秘めた人間,「優しく哀しく謙虚な大人」(civilized citizen)たちに許された政治形態なのである.
 私はこういう民主主義を連合国に負けて新しい学区制になった高校一年の社会科の教科書『民主主義上・下』(文部省)と藤原守胤氏の『民主主義の根本精神』(岩波書店)とその講義から学んだ.文部省の教科書は,非常に優れていると思ったが,なぜか,どの箇所が不都合であったのかわあらないが,その教科書は文部省が慌てて隠したような感じで消えてしまった.それからずーっと日本人は大人になりきれず,子供のまま民主主義をいじっている.国はたぶん,日本人に賢い大人になってもらいたくなかったのだろう.

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