御殿場高原より 47 独居老人の「食」
独居老人の「食」
明け方,足がつりだして目が覚めた.急いでベッドから足を垂らして床を踏む.なんとか収まった.そのまま階下の書斎に降りて,イクが買った一人掛けのソファに座る.
ソファはイクのベッドが置いてあった書棚の前に移した.ベッドは昼寝と腰伸ばし用に東側の窓のそばに置いてある.書斎には東と北と西に窓がある.窓はすべて同じ寸法の一間ほどの広さで,どの窓からも外の緑が見えるが,美しい緑は北側の窓である.目の前には,事務机と両脇に引き出しの付いている大きな机と,その脇にもう一つ事務机が置いてある.どの机にもパソコンとつないだディスプレイがのせてある.東側のパソコンはインターネットで物を注文したり,ネットバンキングをしたり,あるいは,大きなテレビ画面でDVDやBlue-Rayを見たり,ZOOMで研究会に出席したりするのに使っている.真ん中のパソコンは主に日本語に関する考察や日本文の打ち込みに使っている.左側のパソコンは,日本語と英語混じりの「日英翻訳の技法の高度化・精緻化のための資料」を作ったり,TverとかNHKプラスを見るのに使っている.イクとオペラを見るために買った大きなテレビはソファの前にあるが,めったに使わない.
朝,六時.ソファに座って,こんな風に部屋を眺めている.イクは,この時間のころ目を覚まして,二階の寝室で寝ている私を「オオ僕」と呼んで起こしに来た.二人で階段をゆっくり下りて,それから,お風呂の用意をする.「バンバン叩かない?」「叩かないよ」といつもの会話を交わしてお風呂に入れてやり,着ているものを全部新しくして,きれい好きだったイクをきれいに整えるのが最初の日課だった.それから朝食の支度をする.イクは食べることもままならなくなっていて,卵サンドの半分を「がんばる」と言ってほうばっていた.その様子は今も目に浮かび,声が聞こえてくる.練乳かけのイチゴは「おいしいね」と言って口を縦に動かす.食べ終わって,手を引いて書斎に置いてある介護ベッドに寝かせる.そう,イクが生きている時には日常の決まった仕事があった.自分以外の人がいて,日常の仕事があって,自分の仕事が生きていた.イクが死んで,私の日常の仕事もなくなった.朝起きて,このようにソファにすわってぼんやり考えている.食欲もない.こんな状態は今までなかった.今まではしなければならないことが必ずあった.息子の足火が死んで気にする対象が消えた.イクが死んで世話する対象が消えた.「ねばならぬ対象」が消えるということは,自分が不要になったということだ.現在一人で生きている高齢者たち,これから老人になる結婚したことのない独身者たちは,気にする対象も世話する対象もなく,時間は全部自分のものなのだが,彼らは生きているという感覚を何で得ているのだろうか.私は全部自分のものになった時間を自由に使って,毎日,考えたり,調べたり,打ち込んだりしているが,その仕事量はイクの世話をしながらした仕事の十分の一以下である.他に,何をしているか.
月曜日には,イクの訪問看護師だった人に個人的にお願いして昼食を一緒にする.すでに五か月経つが,まだ同じものを作って出していない.イクの世話をしながら,結構,料理のレパートリーを身に着けていたんだなと感心している.食べながらおしゃべりするのは楽しい.この昼食会は自分以外の人のためなので,今のところ重要な生き甲斐である.
イクの世話や新型コロナのため,この5,6年,御殿場から外に出なかった.10月の中頃にある日本認知科学会のプログラムを見ていたら,30分ほどの発表だが,聞いてみたい題目があった.独りで電車に乗り降りするのは心細いので看護師に言ったら,付き添ってくれるという.それでは,レストランでお昼を食べてから本郷の東大に行こうということにして,京橋にあるフランス料理店シェ・イノに予約を入れた.このレストランは,今の明治ビルに引っ越す前から使っている私のお気に入りの店だ.ここのいいところは,ヨーロッパやイギリスの一流レストランのように,入口にステップがないことである.道を歩いて行ってそのままの平面で店の中に入ることが出来る.一昨年だったか御殿場に出来たレストラン「メゾン・ケイ」も外の平面のまま中に入って食事ができる.要するに,高齢者に優しい店ということである.私もそうだが,年を取ると高低差の識別が難しく,わずかの段差ですぐけつまずくのである.
シェ・イノは息子足火の誕生日には呼び出してお昼を一緒に食べていた店でもある.足火は日立,ソニー,グーグルと勤め先を変えたが,どこでも開発社員だったからいつもラフな格好をしていた.彼の誕生日は7月2日で,ある年,暑い日だったので,私もラフな格好で出かけたら,いつもと違う奥の壁際の席に案内された.この店のいいところは,道に面した窓が床から天井まで続いていて,レースのカーテン越しに外が見え,室内が明るいのに静かというところである.おかしいなと思いながら食事を終えて,マネジャーに「ここ,ドレス・コード,あるんだっけ」と尋ねたら「ございます」という答えが戻ってきた.後で調べたら「スマート・カジュアル」であった.それから,教え子で十分に大人になったものから相談を受けるときにこのレストランに招待した.が,そうそう,一人,断ったのがいる.
私は卒業の時にゼミの学生に,「君たちが払った学費は一生分と私は考えている.英語で何か困って,人に訊くにはみっともなくて尋ねられないことがあったら言ってこい.そのものズバリは無理だが,正解への道筋は教えてあげられると思う」と言う.私の現在は,いろいろな人たちの好意のおかげである.自分の学校の講義より他大学の講義を沢山聴いて学生時代を過ごした.イクも学生は好きだった.ある夏,大学のESSの連中が17人遊びに来た.ありったけの布団と毛布を出して,イクは「女子学生はこっちの部屋,男子学生はこっちの部屋」と采配を振るって雑魚寝させた.そういう勉強好きな学生たち,講義を黙って聞かせてくれた先生方,というかそのような勝手を許してくれた大学(という制度)に私たちはお返しをしたかった.「求めよ,さらば与えられん」である.だから,私は勉強が好きなまじめな学生を大事にする.
ある年,卒業して数年たった学生から研究室に電話が入った.彼女はセゾンというカード会社に勤めているとのこと.会社が事業を海外へ展開することになり,英語の案内を作ることになったという.身体を縮めていたのに「〇〇君,君,英文科だよね.君にお願いするか」と部長に言われて,困っていますと言う.それで大阪外大の学長だった森沢さんの編集した『実用英語ハンドブック』(大修館)とか,参考になる本や辞典を数冊教えた.それから二か月ほどたって,また電話が入った.「今日,部長からOKが出て,何とか恥をかかずに済みました.ありがとうございました」「よくやった.じゃあ,シェ・イノでお昼をご馳走しよう」と言うと.「食費を使って辞書や参考書を買ったので,ずっと飢えています.できれば,肉が食べたい」と言う.私の東京の仕事場に近い新宿住友ビルの二階のステーキハウスでお昼の食事をすることになった.彼女は一番大きい肉をレアで注文した.びっくりしたが,ああ,そうそう,こいつ,米沢出身だったと思い出した.子供のころからおいしい米沢牛で育ったんだ.今どうしているかな.もう,いいおばあさんになっているかもしれない.
朝食は,いつもほとんど変わらない.野菜の代わりにかごめの「つぶより野菜」というジュースを一本飲み,たんぱく質をゆで卵一個を塩と胡椒でとり,ニッスイの「ごま豆乳仕立てDHA」で認知症の予防をし,小岩井農場のヨーグルトに木イチゴのヨーグルトソースをかけて腸を整え,昨日届いたブドウ「ナイアガラ」を食べてから,炭水化物が足りないので,昨晩蒸かした秋の味覚サツマイモを一かけ食べた.お昼はお茶と蒸かしたサツマイモの残りを一個.ほとんど身体を動かさないのだから,まあ,普段はこの程度でいい.明日は月曜日.看護師がお昼に来る.この前ローストビーフを食べたときに買ったローストビーフ・ステーキ用ソースが残っているので,ステーキにする.それに少量のポテトサラダをつけよう.それから,コーンスープも少しつける.デザートは「ナイアガラ」を出そう.明日は食事をしながらおしゃべりができる.先週は「貯金」という言葉が彼女からでた.今週も何か私の知らない新しいことが語られるかもしれない.
その次の日には,ここは静かだからと建築家の甥が本を読みに二泊三日で来ると電話が入った.ああ,それなら,と私は最後の日のお昼は季節料理を出す「久呂川」に予約を入れた.
一人で黙って食べるのは補給である.二人でしゃべりながら食べるのが食事である.何も分からなくなっていたけど,イクとおしゃべりしながらした食事が懐かしい.
私は夜には人に会わないし,食事会にも出ない.夜は必ず酒が出る.すると,必ず愚痴を言ったり,クダを巻く人が出てくる.私の父親は晩酌をするために朝から働いているような酒好きだったが,愚痴を言ったりクダを巻いたりしたことがない.きれいなお酒であった.こういう人はあまりいない.私は,夜は,家でイクとおしゃべりしながら何か食べるのが好きだった.イクと一緒が好きだった.
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