御殿場高原より 44 「とてもいい」の世界

「とてもいい」の世界

 昨日は糖尿病科の佐藤先生の診察日だった.「クレアチンの数値がちょっと高いですね」これは腎臓が傷ついている証拠である.「食べ物では何が関係していますか」「塩分ですね」ああ,そうか.イクが死んでから食事がいい加減になっている.朝食はゆで卵で,塩と胡椒で食べる.ちょっとしょっぱいなと思う時がある.夏なのでスイカを一日に二回食べている.これにも塩を振る.ちょっとかけすぎたと思うことがある.次の診察は二か月後である.「次までに下げておきます」と言って部屋を出る.私は糖尿病を食べ物でコントロールして,A1cは6.6から6.8くらいに保っている.基本の三種類の薬はもらっているが,一喜一憂してそのつど新たに薬を加えることはしない.まず,環境を整備し直そう.イクが死んでから,生活が変わった.イクの世話をしたり食事を作ったりすることがなくなったので,朝起きて仕事を始め,ずっと座りっきりで仕事を続け,腰が痛くなると昼寝用のベッドで腰を伸ばし,また起きて仕事をする毎日である.実に退屈なつまらない生活である.結婚しない若者たちも,いずれ独居老人になって退屈するのだろう.科学の力で便利になったが,人類は知恵ある悪魔と化して,自ら滅ぶんだなと感じる.私は数値を少しよくして,もうしばらくイクが作ってくれた「とてもいい」世界ですごしたい.

 イクは四方から光が入る二階の自分の部屋が好きで,無垢板の床に座って,家族の写真のアルバムを作ったり,庭の自然を写した写真のアルバムを作ったり,新聞や雑誌から切り取ったいい男いい女をアルバムにしたりしていた.甥はそれを見せられて「どの女(ひと)がタイプ?」と訊かれて困ったそうである.輸入生地屋のタカトミ・エレガンスで美しい生地を手に入れたときには,裁縫箱を開けて,プロの縫製技能士がびっくりするほど丁寧に,生地作家が描いた模様や絵が壊れないように,生地を二つに折って,頭が出るだけの切れ目を入れてイクしか着れない服を作った.イクはきれいなものが好きだった.買い物の帰り道で通りがかった家の二階のベランダに干してある洗濯物も,干し方が美しいと「きれい」と言ってほめた.その洗濯物がある時から汚くなると,イクは「お嫁さんでも来たのかしら」と想像した.イクには退屈という時間はなかった.雑誌でも新聞でも庭でも,イクは美しい快いものを見つけて丁寧に扱って楽しんだ.イクには「美しい・快い」を選択する才能があったから.「いいもの」は見逃さない.実兄の掛井五郎が新制作協会で新人賞を取ったときに記念に贈られた佐藤忠良のレリーフを「ゴロちゃん」からもらって,私に玄関の扉に貼り付けさせた.なるほど,とてもいい.それは今もある.息子の足火が描いた絵もいくつか壁に貼ってイクは楽しんだ.中の一枚に五郎氏が目をつけて,「おれの彫刻一体と交換してくれ」と頼んだが,イクは嫌だと言って渡さなかった.それは今でもテレビの部屋の壁に貼ってある.これを見てから五郎氏の彫刻は「あかんべ」から始まって童心的でユーモラスになっていった.食事の部屋には画架に,三四歳のころ足火が描いた絵が額に入れて置いてある.認知症が進んで,オオ僕から汚れた口元をティッシュで拭ってもらいながら,指さして「足火の絵」と言ってイクは楽しそうに目を細めた.我が家にはイクが見つけた美しいものがたくさんある.木内克さんの裸婦のテラコッタ,スエーデンの現代彫刻家が作った鉛の四角なペンダント,イタリアのくっきりした造形美の電気スタンド.食器戸棚にはイクが選んだカップやお皿が入っていて,オオ僕に下の世話をしてもらわなけれならないほど認知症が進んでいるのに,サンドイッチを食べながら,食器戸棚を指さして「バッテンつけようか」と言う.「どうして」と尋ねると,「誰かが持っていくから」と言う.ああ,そうか,他の人が持って行かないように大きくテープでバッテンを付けようかという意味か.イクの周りにあるものはすべてが「とてもよく,美し」かった.足火のいなくなった部屋に洗濯物を色合わせしてぴしっと美しく干した.オオ僕が「買い物に行くぞ」と言うと,「イクも行く」と言って,服と財布とバッグを合わせる,その合わせるという作業もイクには楽しいのである.財布の中を確かめ,口紅を一本入れて,ついてきて助手席に座った.イクの化粧品は若い時から資生堂の500円の乳液と口紅一本だけだった.それでイクはきれいだった.イクにとってお化粧するということは顔を汚すということだった.イクは「生涯お化粧をしない修道女は肌がきれいでしょ」と言っていた.イクの部屋には,よく映画で描かれるような女っぽいもの,たとえば,三面鏡とか化粧品のビンとか,ぬいぐるみなど一切なかった.他にはタブーのオーデコロンの一番大きな瓶が浴室に置いてあるだけだった.靴はすべて銀座ヨシノヤに手作りさせたシンプルな美しいスタイルのものだった.イクの選択の基本は女だけでなく男が見ても美しいと思うものであった.それでいて,イクの部屋のドアの内側に,吊るす金具をつけてと頼まれたので作ったら,吊るしたのは幼い足火が着た背中にギザギザのあるダイナソーの繋ぎであった.これらはオオ僕にも「とてもいい」ものだった.イクもオオ僕も「とてもいい」と感じる世界が好きである.イクが整理したアルバムに,二三歳くらいのイクが写った写真がある.母親の横に座って両手をお膝の上において口と目をびっくりしたようにあけている写真である.イクはそのまま大きくなった目で物事を見,生活をしていたのだが,選択には芯があった.それは,たとえば,葬式には,普通,生前の写真を掲げのであるが,母親の葬式のとき,彫刻家の息子がいるのに写真とは,と怒って写真を外させ,その場で自分で母親の顔を描いて掲げた掛井五郎の感覚に通じる生きる緊張と言うか生きる気迫のような美へのこだわりであったと思う.葬式の時に使ったそのデッサンは,イクがもらって,我が家の入口の空間に,イクが学生時代に使っていたきれいな古い椅子と並べて置いてある.イクはオオ僕に手を引かれながら,その前を通るときいつも「ママ」と指さしていた.
 私はそういうイクと暮らして,イクが選んだ「いい美しいもの」に囲まれて生活してきた.私には創造的な才能はない.美しいと感じると心が躍るだけである.自分に造形に対する感覚があると思ったことは一度もない.ただ,飯塚市の外れの一学期だけ通った伊岐須小学校二年の時,夏休みの宿題で鶏の絵を描いていたら,見かねたのか父親から,絵はこういう風に描くものだ,と教えられて描いて提出したら,初めて◎をもらった.美にはある形があるのだと知った.小学校五年生のとき,ボタ山の夜の風景を描いたことがあった.担任の鳥海先生がいたく感心して,叔父の洋画家鳥海靑児に持っていって見せたら「この児はものをよく見ているね」とほめてくれたと言って,一年間教室の後ろの壁に額に入れられて飾られたことがある.美には色と色の組み合わせがあるのかなと思った.しかし,それは偶然の産物で意図して作られたものではない.どうしたら「いい」ものになるのか私にはわからない.ただ,受動的に「いい」と「悪い」しか私にはわからないのである.しかし,だから,大学院の授業の初日にイクを見て「アッ,居た」と,存在の形と色と色の組み合わせがしゃれていてとてもきれいだと感じたのだろうなとは思っている.
 そういう受動的な私の眼から見て,日本のデザインは中途半端でシャープさに欠けるものが多い.アマゾンの封筒のように,まったく事務的に徹すると,イクはそれはそれでシンプルで美しいと言うだろうと思う.あるいは,美しくするならそれに徹する方がいいとイクは言うだろう.多くのものがなんとなくぼやけている.たとえば,農作業に使う箕(み)という道具がある.九州北部ではそれを「えびじょうけ」と言って,竹ひごで作っていた.それは道具としてのメカニカルビューティーがあった.対用途的美しさではポルシェ911やハッセルブラッドやライカと遜色ない.が,最近ホームセンターに買いに行くと,これをプラスチックで作って,色は竹ひごに似せて薄緑にした製品が置いてある.これは,本物の草木の緑の中に置くと,まがいの緑で汚い.プラスチックで作るなら本物の竹ひごでは出せない,プラスチックだからこそ出せる色にすべきなのだと思うのだ.
 イクが死んだ今でも,玄関の外にはイクの赤い半長靴が置いてある.それはイクによく似合っていた.それは自分でも感じていて,何もわからなくなってからも,雨が降っていないのに履きたがった.長靴は昔はゴムで作ったから色に限りがあった.しかし,現代ではビニールで作ることが出来るようななった.ホームセンターに長靴を買いに行くと,元のゴムに似せた汚い色のビニールの長靴が置いてある.が,イタリアのホームセンターには,ビニールだから出せる澄んだ色の赤・黄・白・黒の長靴が並べてある.イタリア人の素材と形と色の使い方は快い.一時イタリアの車ランチアに乗っていたが,内装の色の組み合わせが実にきれいだった.イタリアの高速道路のサービスエリアで見た箒や塵取りも黄色とか赤でクリアで美しかった.
 これは民族の底辺の美感覚に関係があると思う.彼らは小さい時から美しいものに慣れているのである.小学校6年の時だったか,飯塚市にあった金春館という洋画専門の映画館でイタリアの『自転車泥棒』という映画を見た.自転車も男の子も失業者もクリアでなんて美しんだろうと思った.後になって調べたところ,この映画は監督がヴィットリオ・デ・シーカで,出演者はすべて素人.ネオリアリズモ映画の傑作の一本ということだった.
 日本の日常でも美しいものはある.家に来た屋根職人は若い男だったが,他の男の中で働かせるなら自分のそばで働かせたいと,女房を連れて来て手伝わせていた.たぶんその女房が繕ったのだろう,その男のジーンズの膝には赤いハートマークの継ぎが当たっていた.美しかった.また,庭を作る時,造園師が連れてきた弟子の一人は赤い脚絆をしていた.紺の作業着に赤の脚絆は美しかった.しかし,これらの美しさには一種の気っ風とか粋に通じるこだわりが感じられる.まさに,五郎氏が葬式の母親の写真を棄てて自分のデッサンを掲げさせたように.彼らにとってはどうでもよいことではないのである.しかし,これらは珍しい事例である.
 センスよくこだわるのはごく少数で,それぞれそれなりにこだわっているのだろうが,大方の人は,美しさに対して感度が低い.それはたぶん幼児の頃に周辺にこだわった美が少ないので,美感覚が育たなかったのではないだろうか.「笑顔は幸せ」とか「幼児はピンク・曖昧色」みたいな思い込みの中で育ったのではないか.たとえば,幼児が使うおもちゃにデンマークの「レゴ」がある.明度が統一された赤・黄・白・黒・緑が美しい.それを真似てある会社が売り出した「ブロック」は,明度がばらばらで色がピンクを中心にした曖昧色で,私には汚く見えた.これでは幼児たちの美感覚は育たないと思った.
 日本にも美しいものはたくさんあった.しかし,古い日本の美的感覚は,多分,殿様とか,大名とか,大商人とか,あるいは,ゆとりある振りをしなければならない武士階級とか,一部の好事家たちが支えてきたもので,庶民はそのお流れをいただいていたに過ぎないのではないか.民芸を掘り起こした柳宗悦も好事家の一人で,一般庶民はその日暮らしで精一杯であったのだろう.世界の歴史を見ても「美しい」を支えたのはその時々のぶくぶく泡立つバブルである.その意味でバブルはあった方がいい.日本がバブルのとき,イタリアやフランスの美しい生地が日本に集まった.私の書斎には,お客が一人か二人しか座ったことのないきれいな一人掛けのグレーのソファと足置きがある.イクが美しいからと買ったものだ.イクはそのソファに真っ赤な毛布をかけた.その背もたれには,バブルの時期にユニクロが世界中から募集して決定したドイツのデザイナーが作ったTシャツがかけてある.絵の具をこぼしたような抽象的な色と形が美しいと言ってイクが求めたものである.イクも私も一度も手を通したことなく飾ってある.たぶん,ユニクロも我が家もその頃バブルだったのだろう.だから,デザイナーが必死で描いた作品を見つけることができたのであろう.美には作る側の美に対するこだわりと受ける側の余裕が共時的に必要なのである.
 オオ僕は,本でも絵でも彫刻でも人でも「とてもいい」しか分からない.「もう少しここを直せばいいのだけど」という見方ができない.学生のレポートでも「ああ,いいな」しか分からない.「ここを直せばよくなる」と教えることができない.そういう意味では教師失格であるし,指導者にはなれない.だから,イクが「とてもいい」と感じて選んでくれた世界で暮らすことが出来て幸せであった.イクのすることなすことはすべて「とてもいい」であった.オオ僕は,今,イクが残した世界で,そのまま生きている.いつまで続くか・・・.

 御殿場警察署で最後の運転免許更新をして帰って来たら,玄関の前に葬儀屋が待っていた.会員になって月々会費を払っておけば,いざという時にはすぐ動きますと言う.しかし,まだお迎えの準備はしたくない.

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