御殿場高原より 31 世界と楽しむために

世界と楽しむために

 最近はヨーロッパに出かけていないので,はっきりしたことはわからないが,私の知っているヨーロッパは人間的であった.親戚が集まると会話は英語であるが,多様なルーツの人たちなので,いろいろな言語が当然のように入り混じる.私の論文は,だいたい「物語」(主に,認知科学会)とか「言語」(主に,人工知能学会)に関するものだから,その方面の専門家のイギリス人に英文のチェックを頼んでいた.一人はマンチェスター大学の大学院で「ローランド・バーサス論」(フランスの哲学者ロラン・バルトの英語読み)で学位をとった男で生粋のイギリス人だが奥さんはフランス人,もう一人のオックスフォード大学で音楽を専攻したシドニー・ブラウンは,名前はイギリス風だが,祖父の代にチェコからの移民で,もとは「ブラウノスキー」であったが,移住の際にイギリス風に「ブラウン」に変えたのだという.イギリスでは仕事で人を採用するにあたって出自を尋ねることはタブーである.本人が言わない限り出身はわからない.この二人とはロンドンに行ったときにはレストランで夕食をしていたので,かなり細かいことまでお互いに知っている.マンチェスター出は当然,フランス語は出来るし,ブラウンの方は,フランス語の他にドイツ語とチェコ語も出来る.大学出ならだいたい二カ国語はできる.大学院出の大学教授クラスなら,それにラテン語が加わる.日本でも私が大学院に進んだ頃には二カ国語の試験があった.(日本ではその後,高等技術者・専門職が必要となって,文部省は大学院の定員を大幅に増やし,外国語の試験も一科目にした.)それにラテン語は神田先生について一対一で学んだ.ヨーロッパではコミュニケーションというものは,いろいろなルーツを持つ人が耳と口(あるいは手)を使っていろいろな言葉が入り混じりながらおこなうものと決まっている.
 日本ではステーキを注文すると野菜もお皿に盛られて出てくる.尋ねられるのは肉の大きさと焼き方であるが,イギリスでは街角にあるようなステーキハウスでも,肉の大きさ(large, medium, small)に焼き方(well done, medium, rare)の他に,野菜(vegetables)は何にするかなどと尋ねられる.おかげで私は野菜の名前と料理法をいくつか覚えた.ほうれん草はspinach,にんじんはcarott,ジャガイモはpotato,・・・.夏に出かけると,new potatoがあるぞ,と耳打ちされる.Just boiledだ,と応じると,それが一番だ,よくわかっているじゃないか,と目で答えてくれる.
 彼ら二人と食事をするのは,こういう街角のステーキ屋より,いつも,ちょっと洒落たレストランなので,メニューは当然フランス語で書かれている.私たちは料理に関するフランス語も一応覚えている.でないと,ヨーロッパではおいしい食事は楽しめない.それでも,通じないこともある.ある食堂で「ピラフ」を注文したのだが,中国人のウエイターの復唱が「ピロ」としか聞こえない.「いや,ピラフだ」と言っても「ピロ」と返してくる.仕方なく料理の仕方を説明すると「ピロだ」という.持ってこさせてみると「ピラフ」なのである.また,ローマではスパゲッティに使うエビでもめた.エビは大きさで種類が異なり言い方も異なる.どうしても通じなくて,調理室までつれて行かれて,どれにすると言われたこともあった.
 私は日本人だから料理そのものもたまには間違う.ロンドンで従兄夫妻と高級なレストランで食事をしたことがある.食前酒のリストが出てくる.ワインのリストが出てくる.料理のメニューが出てくる.ロンドンなのにメニューは英語ではなくフランス語で書かれている.まずsandemanのシェリー酒の中から好みのものを選ぶ.次に料理に合う好みのワインを選ぶ.それから料理を選ぶ.食前酒に黒マントのシェリー酒の中の辛口を頼み,話をしていたのだが,なかなかスープが出てこない.スープはどうしたとマネジャーに尋ねると,はい,ただいま冷やしているところでございます,と言う.えっ,と言ってから,間違いに気がついた.「クラゲ(gelly fish)のスープ」と間違えてconsomme a la jure(ジェリー状のコンソメ)を頼んでしまったのであった.
 多少は間違ってもいい.楽しく話して笑う,愛情や友情を確かめ合う,悲しい宿命に涙し合う,手を取り合ったり,握手をしたり,抱き合ったり,慰めたり,人が文化的に生きるためには,自分で言葉を身に着けなければならない.まず,言葉を自分の口と耳あるいは手で操らなければならない,決意して,いくらか決意を持続させて異言語を習得しなければならないのだ.私の教え子はカトリックであったから大学を卒業するとすぐカトリック系のオーペアに応募してイギリスの家庭で子供の世話をしながらサセックス大学で学んだ.帰国して母校の盛岡白百合で英語を教えた.
 ロンドンの従兄は戦時中に旧制中学を卒業しているので敵国語と言われていた英語は学ばず仕舞いであった.戦後,連合国軍の統治下に入り,英語が必要になった.彼は英会話の本を求め暗記し,駅のホームで英米人を見かけると必ず近くに立って英語を聞いたそうである.そうして彼は通訳の試験に合格して,国鉄の職員となり,特急の外国人専用車の車掌として勤務し,やがて,東京駅の外国人客専用の案内所で働くようになった.夜は東京経済大学の夜間部で勉強し,卒業して野田合板と勧業証券から内定をもらった.彼は私の父のところに「どちらにすべきだろうか」と相談に来た.父は「証券会社のほうが世界が広いよ」と勧業証券を勧めた.彼は勧業証券に入り,高松支店に配属されると,金比羅さんに商売を仕掛けて注文を受け,47倍にしてやったそうで,すぐニューヨーク支店に転勤になった.彼は仕事が終わると,ニューヨーク市が開いている「移民のための英語教室」に通って自分の英語に磨きをかけたそうである.それからロンドン支店の開設のためにロンドン勤務となり,さらに支店を独立させて子会社とすることになって彼はその社長を任された.私がロンドンに行ったとき,彼の家に招かれたが,机の端には堀英四郎の『正しい英語会話』((1942)大修館書店)が置いてあった.まだ英語の勉強をしているのだ.彼の英語は完璧で,口の動きも声の出し方もほぼ上等なイギリス人と同じで,日本人の英語ではなかった.
 このくらい訓練すると,日本人でもこんなにいい英語になるのかと思った.ヨーロッパではどの言語も文法体系がほぼ同じであり,単語も語源が同じ場合が多いので耳と口を訓練すればすぐ習得できるが,日本人の場合,新しく言語を習得するには文構造から勉強しなくてはならないから根性がいる.しかし,大学で第二外国語をとった時を思い出して欲しい.文法のテキストなど薄っぺらで,10日もあれば覚えてしまえる.後は「音」に専念すればいいのである.そして,「音」はその音の環境に入るのが一番いい.
 従兄の会社には,東京の親会社から社員が研修に派遣されてくるとのことだった.みんな東大,京大,一橋大などの出身者で幹部候補生である.最初は英語は読めるけど聞けずしゃべれずであるが,ベルリッツなどの会話学校に通わせると,受験勉強で英文法をしっかり勉強していて,もともと英語の出来る連中なので,瞬く間に耳と口が動き始め,二ヶ月ほどで,週末にお客との電話を"Have a nice weekend!"と言って切れるようになるそうである.そうすると,もともと英語は読めるので,関連情報は新聞・その他から集めるし,書類は扱えるし,話もできる社員になって,現地で雇った社員より速く伸びていくと言っていた.口と耳には後からでも,その言葉が使用されている環境に身を置くとすぐ身につくのである.
 実際,英文法を勉強したことのある学生は強い.私は大学で一時,帰国子女向けの「英語矯正」という科目を担当させられたことがあった.英文法を教えながら英語を矯正するのである.しかし,多くの帰国子女は「私の英語で通じるもん」と言って幼児英語(I want to)を引きずって平気でいる.大人の英語(I'd like to)にする意志を示さない.テレビマンユニオンでプロデューサーだったかディレクターだったかをしている弟から聞いた話だったと思うが,ロケで外国人と交渉したりする人員を補充しなければならなくなり,募集したところ帰国子女も多数応募してきたが,幼児英語では外国の観光局の役人と交渉できない.絞っていくと帰国子女はほとんどが落ちて,結局日本の大学を出た者になってしまったということだった.私の矯正講座を熱心に受けてくれたのは中国の華僑の娘一人だけだった.そのあと,その学生の親戚という女性が大学院に留学してきて来た.大学を出て商社に七年勤め,中米の仲介をしていたが,それに日本を入れて「中米日」を取り扱いたいと言うのである.四川大学の英文科の卒業生で,一対一で日本文の英語への変換を教えた.いい英語を書くので,大学ではどいう風に勉強したのかと尋ねると,教員はすべてアメリカ帰りの人で,何ヶ月間か英語寮で英語漬けの生活しなければならないのだと話してくれた.そういえば,イギリスの大学に留学した私の学生が話したのだが,外国語にドイツ語をとったら,提携しているドイツの大学の寮で四ヶ月暮らさなければ単位がもらえないと言っていた.言葉の学習には「口」と「耳」のために,何ヶ月か「言葉漬け」になる根性が必要なのだ.
 大学で優秀な英語教師を求めたので,関係していたイギリスの出版社にいい英語教師をさがしているのだがと伝えたら,今マレーシヤにいい人がいると紹介された.手紙で日本の大学で教えないかと尋ねたらOKしたので来てもらった.英会話の担当ということで,彼女は午前の授業が終わると,そのまま教室に残って持ってきたお昼を学生と会話をしながら食べようとした.が,教室で一緒に食べる学生はだんだん減って,だれもいなくなった.彼女は「ここでは教え甲斐がない」と言って,マレーシヤに帰ってしまった.外国では引き受けた仕事には結果を出さなければならない.成果の見込めない頼まれ仕事などさっさとやめてしまう.どうして日本の学生は頑張らないのだろう.多分,親が払ってくれた学費や自分の限られた時間を無駄にする浪費家であり,身につけた英語で世界に羽ばたきたいという夢などもったこともない土着人だからだろう.
 私は新学期になると,「英作文を学びたい者は特訓してやるぞ」と学生に呼びかけていた.集まった学生に日本文を渡し,この文章が伝えたいと思っていることを一週間以内に英語にしてきたら添削してやると告げる.はじめはかなりの学生が来るが,週を追うごとに減っていく.日本の学生は英語を身につけたいくせに決意の持続ができない.一人だけ,やめない学生がいた.
 「君は,頑張るねえ」
 「ええ,高校のとき父が付けてくれた家庭教師が都立高校の英語の先生で,「おれは,英作文は教えられないよ.英作文を教えるという人がいたら食らいついて離れるな」と言われたのです」
 彼女は英作文の特訓を受け続けて卒業した.彼女はある大学の歯学部教授の娘で,特に勤めに出るわけでもなさそうなので,2年ほど時間がかかりそうな分量の私の手書き原稿をコンピュータに打ち込む仕事を頼んだら引き受けてくれた.ところが,それを一年で仕上げて,「私は英文科を卒業しているのに英語が使えなくてこそこそ隠れたりしたくない.先生の仕事をして英語が面白くなったので,語学留学します」と言ってきた.「それなら,日本人が一人もいない学校がいい.全神経を英語に向けられる」とアドバイスした.彼女はイギリス海峡の沿岸にあるリゾート地シドマス(Sidmouth)の英語学校に行った.シドマスは,引退した文化人などが多く住んでいる土地で,退屈しのぎにセンスある英語を教えてくれるいい所だった.(今は日本の語学エージェントが見つけて,生徒を送り込むので日本人がたくさんいるらしい)しばらくして手紙が来た.「大学院に行きたいが,何処がいいだろうか」と言ってきた.カルチュラル・スタディーズに関心を持ったらしい.日本にちょっと帰ってきた時,Edward W. SaidのHumanism and Democratic Criticismをあげたように思う.当時イギリスでは学区制の再編で新しい大学がいくつも出来ていたが,古くからある大学を推薦した.彼女は英語の資格試験に通り,大学院の試験にも合格したが入学の許可が出ない.で,なぜかと問い合わせたら「推薦状」が来ないからだと言われたという.イギリスでは合格点より「個人の推薦状」が重要な書類になる.「先生,忘れていませんか」と電話があり,調べたら研究室の手紙箱に大学から問い合わせの手紙が入っていた.アメリカの大学は学生当人も推薦状の内容が読めるように開封なのだが,イギリスは「密封」でなければならない.急いで書いて彼女の人物と意欲を保証したら,入学が決まった.イギリスの修士課程は一年で,彼女は論文を書き,更に,勉強したいというので.エディンバラ大学を勧めた.彼女はその博士課程に進み,PhDを得て,エジンバラ大学で研究員をし,日本で英語関係の会社を設立・経営している.この人は決意を持続させた頑張りやさんだった.いろいろの学生を見てくると,決意を持続させる学生は,両親が高学歴であることが多い.確か東大に入学する学生も両親が高学歴で高収入である割合が高いというデータがあった.そして,高収入が話題になるが,両親が高学歴ということは両親が決心の持続性の高い人たちで,その子どもたちは親譲りの頑張り屋ということなのだ.
 金田一京助の言うとおり「言葉は心の城壁に通じる唯一の小径である」.使う言葉は変わっても,話す人の考えも感受性も変わらない.日本人がびっくりして英語で表現すると,なんでそんなこというのかイギリス人にはわからない.「どうして?」と質問される.説明する.日本人はそういう感じ方をするのかと相手はびくりする.お互いに視野が広がる.話す・笑う・食べる・飲む.そうしているうちに人間の文化がどういうものか身についてくる.世界は広くて面白い.こんな楽しみは翻訳アプリでは得られない.しかし,だからといって母語の日本語も安定していないうちから英語を教えるというのは間違っている.国のせいで悲しい思いをたくさん経験することになる.愚かなことである.

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