御殿場高原より 41 独り暮らし

独り暮らし

 イクが認知症で要介護2になったとき,認知症そのもので死ぬことはないので,ほとんど病気になったことのないイクは,心筋梗塞で入院したオオ僕よりも長生きするだろうと思った.それで,オオ僕が元気な間はイクの慣れ親しんだこの空間で世話をするが,オオ僕が入院したり死んだりした後,イクが安心して過ごすことが出来るように,キリスト教系の御殿場十字の園への入園の手続きを済ませておいたのだが,オオ僕より先に死んでしまったので,オオ僕は思いがけず自由時間をたっぷり持つことになった.
 オオ僕は,小さい頃から,眺めたり,読んだり,考えたり,調べたり,書いたりすることが好きだった.小学生の頃,学校へ通う途中の川に架かる橋の二軒手前に鍛冶屋があって,夏休みにその前で一日中作業を眺めていたことを覚えている.中学生になって理科の実験があると,教材屋(昔はこういう店があった)で実験キッドを買って同じ実験を家でやったりした.蝶の鱗粉を学校で顕微鏡で見て,帰りに薬局に寄って,学校で使った「キシロール」を買って家でプレパラートを作って眺めたりした.だから,いつもしたいことが沢山あって,いつも時間が足りなかった.それは勉強だけにとどまらなかった.ビー玉も,メンコも九州では東京より豪快で面白かった.夢中になった.野球にも一生懸命で,暗くなるまでやって,夕食に遅れて母親によく叱られた.その性格は高校生になっても変わらず,高校一年の社会科で「経済」を習うと,父親の本箱から高田保馬の『第二経済学概論』を引っ張り出して読んだり,学校の図書館で経済に関する本を読んだ.
 だから,高校を卒業して,大学に入って親から離れて暮らすことになったとき,24時間まるまる自由に使えることがうれしかった.しかも,仕送り付きなので,生活の心配はしないですむ.そして,人の勉強にまで手を出した.
 学生寮にはいろいろな専攻の学生がいた.寮は一部屋に二人で,一年の時の相棒は明治の商学部の三年生であった.「俺さあ,三次補欠で入ったんだよな.一次補欠は入学者が定員に達しないとすんなり入学出来るんだが,二次以降は,二次いくら,三次いくらって寄付額が決まっていて,親父が寄付してくれて入ったんだ.もともと数学が出来ないから商学部に入ったのに,「経営数学」なんて科目が必修であってよ,レポート,出せ,なんて言われてもこまるんだよな」とぼやいた.訊いてみると「ある仕事に何人の作業員を使うと最高の利益をあげることができるか」というような課題であった.「ああ,これは高校の三年の時に習った積分で最大値求める公式を使えばいいんんだよ」と言ったら,下書きを書いてくれと頼まれて,書いてやった.それが始まりであった.
 下級生で東大に行っている学生の女友達が共立女子大の国文科の学生で,彼女から源氏物語のレポートを書いてくれと頼まれて困っているというので,課題をきいて,それも代わりに下書きを作ってやった.
 三年の時,「英詩概論」をとった.学年末のレポートは,だいたい,提出の締め切りが冬休み明けが多い.ちょうど,スキーのシーズンと重なる.一度も口をきいたこともないけれどもかわいいなと思っていた女子学生が「兄貴たちとスキーに行きたいんだけど,困ったな」と言っていたので,「君の好きな詩を選んでくれれば,レポートの下書きしてあげるよ」と言ったら,それを聞いて,その科目をとっていた他の学生も「俺のも」「私のも」と言ったので,受講者全員21人分,いろいろな詩の下書きを書くことになった.中には自分では決して選ばない詩が含まれていて,大変勉強になった.正月に帰省しないで寮にいたら,最初に引き受けた女子学生から「志賀高原で滑っています」という絵葉書が来た.はじめて女性からもらった葉書であった.今ならさしずめスマホでメールだろう.レポートも下書きを受け取ったら,スマホのchatGPTでコピーして,ワード原稿に変換して提出するだろう.
 高校一年のときの社会科の先生が「毎日,新聞の経済欄の日銀帳尻を見よ」と言ったせいで,一瞬も止まることのない物理的時間の中で,人の欲望を金銭的に処理する様態を研究する経済学は面白い学問だなと感心していた.そして,欲望の最先端的な現象としての「株の売買」に興味を持った.大学院に合格して授業料を払う春,ソニーの株が跳ね上がることが予想出来て,授業料で株を買って,入学は一年延ばそうかなどと真剣に考えたこともあった.
 自分で稼ぎ出していくらか余裕が出来たときに,人間の欲望の変化を金銭的に眺めたいと思って,遊び半分で元手三百万円で株の売買を始めた.高校生の時数学がよく出来たというイクは,銘柄を言うと,毎日新聞の株価欄を見て楽しんでくれた.株の買い方は単純で,イクが身近なものの会社がいいわよと言ったので,石けんの花王とか,お醤油のキッコーマンとか,携帯ラジオのソニーとか,冷蔵庫のパナソニックとか,家で使う電気の東京電力とかの株を売買に使った.英詩概論のレポートを書いてやった女子学生は信越化学工業の重役の娘だったと思い出して,信越化学の株も買うというようないい加減な買い方である.本気で株で財産を殖やそうと思ったことはない.マイケル・ダグラス主演の映画『ウオール・ストリート』の主人公のように,毎日毎日,いつも株価を見ていて,その合間に食事をしたり女に逢ったりするような生活などしたくなかった.それでも,株で一度も損をしたことがない.むしろ増えて,定年退職の時には元手が六百万ほどになっていた.損をしなかったのは,生活費を株につぎ込んだわけではないので,下がったら売らなかったからである.株というものは,必ず上下するものであり,長期的にみれば必ず右肩上がりのものである.上がった時に売って,下がった時に買うを繰り返せばいいのである.日経の「銘柄フォルダ」に目当ての銘柄を入れておいて,時々パソコンで見て,大和証券のオンラインで売買の指示を出すだけである.しかも,現物取引だけで,決して信用取引はしないと決めていた.おかげで,定年退職後に,現役時代と同じレベルの生活をするには,年金だけでは,固定資産税とか,車検の費用とか,学会や研究会に出かける費用とか,生活費以外の出費に年に60万円ほど足りないので,それを株の売買で補っている.
 現在,男も女も結婚しない人が増えているという.若いうちは,オオ僕もそうであったように,誰にも邪魔させずに,仕事にゲームに遊びに時間をたっぷり使うことが出来きるとうれしいのだ.友達と外で一緒にご飯を食べたりすることも自由でうれしいのだろう.妻のために,子供のために,急いで家に帰る必要もなくてうれしいのだろう.したいことをたっぷりしたい.たぶん,これが労働条件の不安定さだけでなく,未婚の男女が増えている一因ではないかと思う.息子の足火も独身で何処の会社でも正社員だったが,日立の研究所が川崎の工場内に移転して,作業衣を着なければならなくなったのでいやだ,ソニーが技術系の社員の待遇を改悪したのでけしからん,と会社を変えて,最後はグーグルで仕事をしていた.好きな仕事を好きなところでし,仲間と外でご飯を食べ,発売されたばかりのゲームを一晩でして,翌日には売りに行っていた.実に忙しい生活を息子はめいっぱい楽しんでいた.だから,結婚する暇がなかったのかもしれない.
 オオ僕の場合,幸いにも,大学・大学院で勉強したことが仕事となって,仕事が好奇心を満たすものだったので,ずっと好きなことをして生活することができた.
 子育てを煩わしいとも騒々しいとも思ったことがはない.子供は満たされないと泣き騒ぐ.イクは賢くて愛情深かったので,足火のおしりをいつも清潔にしていたし,ミルクもたっぷり与えていて不満状態を作らなかった.足火はいつも笑顔でぐっすり眠っていた.イクは子供の育て方も上手で上等の母親であった.足火が泣いたのは,眠っている間に食事をしようとイクと「名鉄菜館」に行って留守にした一度だけである.食事をして帰ったらベッドの枠木をつかんで仁王立ちになり真っ赤に怒って泣いていた.
 定年退職して,年金で生活することになったとき,かつて大学に入った時の開放感を感じてうれしかった.今度は親からではなく国から年金という仕送りが送られて来て,時間を自由に使っていいよと言われているような気がした.イクの認知症が進んだのは定年退職後からなので,世話は仕事をしながら出来た.イクを朝晩風呂に入れ,着替えをしてやり,食事を作って食べることなど苦にならなかった.もともとイクと一緒に暮らし,イクの笑顔を見ることが好きであった.イクは生涯で一度も不機嫌な顔を見せたことがなかった.「何々するぞ」,たとえば,「買い物にいくぞ」とか「東京に行くぞ」と言うと,「イクも」とか「イクも行く」と言って,ゆっくり起き上がって,財布を検め,口紅一本いれて,ついてきた.
 イクが死んで,ぽっかり時間に穴が空いたような感じである.いくら仕事をしてもその穴は埋まらない.ただ,たっぷり増えた時間は,「時間をふんだんに自由に使って好きなことをしていいわよ」とイクがくれたプレゼントだと思うことにした.イクがくれたこの時間を,仕事と勉強にすべて当てようと思っている.独りではオペラを見ようという気にもならない.今の仕事というと,イクの世話をしながら続けていたNPO法人「言語研究アソシエーション」の「等価変換(翻訳)の手法の高度化・精緻化のための資料」を書くことくらいである.それで,月曜日のお昼に来て食事をしてくれる看護師さんと,イクにした簡単料理を作るという「おままごとごっこ」の続きをするほかは,誰とも口をきかず,全部の時間を仕事に使って独りで過ごしている.それでも,まだ独りに慣れなくて,夜,何か音がすると「イクかな」と思ってしまう.

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