御殿場高原より 46 国家不信という戦争の傷

国家不信という戦争の傷

 毎年8月15日になるとテレビや新聞に「終戦記念日」という言葉が現れるので,太平洋戦争のことが思い出される.私には,敗戦を終戦と言い換えて責任を回避する政治家にあきれると同時に,そのユーヒズムで国民が打ちひしがれるのを避けた巧みさに感心している,が,「敗戦」を「記念日」とする国はないのではないかなと思う.何か「節操の無さ」を感じる.
 私の父は,私や上の妹が生まれた後,シナ事変の時に兵役義務で出征した.大学出なので少尉で任官し,中尉になって帰ってきた.父は穏やかな人だったので,普通は犯せば罪になる殺人を,意志的に犯さなければならない戦争には二度と行きたくなかったのだろう.再度召集されないように戦時基幹産業であった石炭を掘る会社日鉄鉱業に,郷里鳥取の伝手を頼って就職した.祖父は分家だが,本家は,昔は,鳥取藩の物流を一手に引き受けていた「木屋」という屋号で「絞り巾着」という珍しい家紋の廻船問屋だったので,伝手はいくらでもあったのだろう.当時,日鉄鉱業の本社は丸の内の郵船ビルにあった.日鉄鉱業の本社の役員室での面接に,なぜか私も連れて行かれた.東京の西の外れの国分寺しか知らない私に東京の中心を見せたかったのかもしれない.途中,郵船ビルは船会社のビルだけあって,海上に浮かぶ船の原理を利用して作ったビルで,地震が来ても揺れるけれども倒れないんだよと教えてくれた.小学校二年の春である.それから,福岡県飯塚市外の社宅を,徳前,伊岐須,栄町と一年の内に三回も引っ越しをした.引っ越しのたびに父親は昇進したようで,栄町は住人の全部が「係長」であった.ここで初めて私はアメリカ人に会った.アメリカ兵の捕虜は捕虜収容所にいたが,午後になると,傷痍軍人が四五人づつ連れて散歩に出る.その中の一グループの折り返し点が家のすぐ先の小高い丘だった.一行はそこで一休みする.戦時中で食糧不足なのか,みんなへたり込む.傷痍軍人がポケットから煙草を一本取り出して,一服か二服して,隣の捕虜に渡すと,一服か二服して次に回す.アメリカ兵の一人は,いつも小声で歌を歌っている.その散歩について行った私が腕の金色の毛にそっと触れたら,青い目の青年が何か言った.付き添いの傷痍軍人が「名前は何だ」ってと言ってんだよと教えてくれた.「ぼく」と答えると,笑いながら,アメリカの青年に伝えていた.彼が口ずさんでいた歌が"I'll be seeing you."というジャズの名曲と知ったのは,大学生になってビリー・ホリデーを聴き始めてからである.この曲を最後に聞いたのはマイケル・ダグラスとメラニー・グリフィスが出た『嵐の中で輝いて』という映画の中である.
 今の人たちにとって,これは生まれるずっと前のことで,たぶん,その両親も経験ないと思うのだが,第二次世界大戦というのがあって,日本は英米を中心とする西欧諸国や中国を相手に戦争をしたのだ.それが負けて終わったのは,私が小学校四年のときだった.そして,私は,ある日突然価値観が百八十度変わるという経験をした.昨日まで正しかったことが今日は間違いだというのである.戦争中は学童服もズックも配給だった.くじ運の悪い私はくじに当たらなくて,ズックがもらえず,裸足で学校へ通った.私は皮膚に水気が少ない質だったので,冬には踵にひびを切らして,足から血を流しながら屈辱に耐えた.人間らしく生きることを我慢して動物のように裸足で頑張ったのに,あれは間違いだったというのであった.担任の先生は女の古賀先生で,ご主人を戦争で亡くしていた.教科書は墨で真っ黒になり,算数の本は足りなくて二人に一冊だった.隣の席の級長は私の成績を下げたくて,教科書を見せてくれなかった.私は試験で零点を取った.母は事情を知ると,どこかからか教科書を借りてきて一晩で教科書の問題を全部ノートに書き写してくれた.私にこんないやな思いをさせているのに,先生をはじめとして大人たちは誰一人ごめんなさいと謝らなかった.先生もどうしていいかわからなかったのかもしれない.クラスに一人いた朝鮮人の子どもの洋服を脱がせて,縫い目にびっしり付いているシラミを駆除してやったりしていた.自習ばかりだった.それで,私は事態を黙って見ながら,自分で見て考えて判断することになった.
 退屈した私たちは,教室で学芸会の真似事をして時間をすごした.佐賀の疎開先から帰ってきた友達の一人笹尾君が,教壇に出て歌を歌い始めた.
 「エンジンの音,・・・」
 航空隊の歌で,「エンジンの音,ごうごうと・・・見よ落下傘空を行く,見よ落下傘空を行く」と戦意高揚の歌詞が続くのである.すかさづ級長が立ち上がって「まずいよ,それは」と止めようとした.とことが笹尾君は,それを手で制して歌い続けた.
 「エンジンの音,がちゃがちゃと,ぼろ自動車行く,田舎道」
 「それならいい」
と級長は言って座った.私は級長の小賢しさがたまらなかった.いまでもその級長のずる賢い目も名前(岡〇〇行)も覚えている.
 迷子になったことがあるかなあ.デパートに親と買い物に出かけてはぐれて不安を感じたことないかな.
 戦争が終わって,私は国から捨てられて自分で生きていかなければならない迷子されてしまったのだ.イクは静岡空襲で,姉のいさほちゃんに連れられて茶畑に逃げたと聞いたことがある.「あの丸い澄んだ目で,何もわからず,いさほちゃんに連れられてパジャマで逃げ惑ったのか」と私は懐かしく想像する.私は空襲を受けたこともない.福岡市が空襲を受けて,竜王山の山影が真っ赤な空に黒々と浮かんだのは覚えている.真っ青な空を,B29がレーダーに捕捉されないように細いアルミのひものようなものをキラキラたらしながら小倉の方向に飛んだのは覚えている.ああ,きれいだな,と思った.炭坑では英米の捕虜が働いていたので,空襲はなかった.父親は北支へ出征したが,無事に帰って来ていた.母方の従兄弟の一人が霞ヶ浦の予科練に入ったが,体操が上手で教官として残されたので,だれ一人戦死していない.だから,直接的には戦争の被害は受けてはいない.しかし,私は戦争によって価値観を失い,迷子になったのである.そして,「人間としての節操(integrity)とは何か」を自分で考えなければならなくなったのである.
 以来,私はいつも個人にも集団にも,特に国には疑いの目を向けるようになった.また無理やり個の論理を捨てさせて集団の論理を強いるのではないか,また「僕」を騙すのではないかと.それで,自分で納得がいくまで考えなければならないと思った.自分で考えて正しい結論を得るにはたくさんの幅広い勉強が必要だと思った.五年生の春には,まだ物資のない中,毎日新聞社が汚い藁半紙のような紙を使って『新しい日本の歴史』をいう本を12冊かに分けて出した.私は世界史的な視点で自分の国を見るために,それをむさぼるように読んだ.六年生になると,日本の古典も読んだ.「見るべきほどのものは見つ」と言って壇ノ浦に入水して滅んでいった平家の物語が好きだった.「見るべきもの」ではなく「見るべきほどのもの」の「ほど」とう言葉の中に平家人の「節操」(integrity)を感じて感動したのを覚えている.こういう風に自分で感じて考えて納得して判断するという生き方をすると,自分の人生が他の人とは異なる厳しいものになることをうすうす予想していた.級長の「岡〇〇行」君のように,すばしっこく立ち回った方が楽だろうと判っていたのだが,私には出来なかった.そのためか,謡曲「隅田川」の中の「名にしおはばそここととわむ都鳥わが想う人はありやなしやと」と詠む不遇な人の歌や,孤高快感を歌った若山牧水の「白鳥は悲しからずや湖の青空のあおにも染まずただよう」に感じ入っていた.荒廃した大地に両手をついて天空を見上げる少年像を彫る彫刻家を描いた獅子文六の少年小説『広い天』を読んだのもこの頃だった.芥川龍之介の『河童』を読んだのも,この頃である.友達の父親が開いている本屋で『河童』を買うとき,友達のお父さんが「自分で選んだのか」と聞いた.「そうだ」と答えると,「うちの順造は,まだ,こんな本は選べない.偉いな」と言われた.今でも覚えているのは,河童は生まれるとき父親が妻の生殖器に口をあてて胎児に「生まれたいかよく考えろ」と言うと,胎児が「父さんの遺伝の精神病だけでも大変だし,自分は河童的存在を悪と思うので生まれたくない」と言う場面である.河童の世界では胎児にも選択の自由が与えられているのかと思った.父親が,そのあと,消毒のための水薬で口をすすぐと書いてあっておかしかった.おしっこの出るところに口をつけたのだからもっともだと思った.
 中学一年の時の担任は,教育熱心な若い英語の先生で共産党の党員だった.「君は自由党,君は共産党」などと生徒に役割を振り当てて,演説させて,クラスで模擬選挙をして私たちを政治的に洗脳しようとした.その先生は後にレッドパージになって教壇を追われるのだが,夏休みに入ってすぐ,先生は希望者を海水浴に連れて行くと発表した.私は参加した.私の父は,当時,黒ダイヤと言われた石炭を掘る鉱山会社の勤労課の課長で,そこそこの給料はもらっていたのだろうが,母が金銭に無頓着で,給料日から半月もするともう家にはお金がなく,生活は「お通い帳」に頼るような始末たった.けれど,初めて私が自分から海水浴へ行きたいと言ったので,母は汽車賃とお小遣いを作ってくれた.新飯塚駅に着くと先生は私に汽車賃を立て替えておいてくれと言った.しかし,先生は立て替えた汽車賃を返してくれなかった.ふと耳に聞こえてきた先生の声は「彼のお父さんは課長だから」という言葉であった.あとから考えると,こういう場合,引率の先生の汽車賃は,お金に余裕があるどこかの家が持つのが常識らしいのである.母が息子の海水浴のためにどんなに苦労して集めたかしれない金を,「課長だから」と私に出させた教条主義的単純さを私は許すことができなかった.大学生になって当時の学生らしく共産主義に関心を持ち,人並みに『経済学教科書』などを読んだのだが,その先生の声が耳に残っていて,どうしても共産主義を受け入れることが出来なかった.民主主義もいろいろあるように,共産主義もいろいろだろう.周恩来となら知的に話ができるような気がして,できれば,共産主義について彼と話し合ってみたいと思ったりした.
 敗戦後の日本に与えられた民主主義は「自由と平等」がベースになっていると説明されて,社会的には戦前の階級社会の是正が問題になって「平等」が叫ばれた.我が家は不在地主だったので,鳥取の土地は山林を残してすべて農地改革で失った.大学一年の時,父親から証書が送られてきて,農地改革で取り上げられた土地代を富国生命の本社に取りに行って自由に使っていいと言われた.わずかな金額であった.これで,地主と小作人という縦の関係は消えたのである.しかし,私にとって大切なことは「平等」ではなかった.「選択肢が無限にあってその中から自分で選ぶ自由」が大切であった.自分で自由に考えてあらゆる選択肢の中から自由に選ぶことが出来るなら,たとえそれで間違いを犯して損をすることになっても,死ぬことになっても,自分の責任として甘受する覚悟を持ちたいと思った.だから,民主主義をよく知りたかった.それで,高校1年の時の社会科の教科書『民主主義 上・下』は熱心に読んだ.大学1年の時には,慶応大学の藤原守胤という先生が『民主主義の根本精神』(岩波書店)という自分の書いた本を使って講義をしたのだが,これも熱心に聞いた.それで,理想的な民主主義では,人は国があって住まわせてもらっているのではない,倫理観のある賢い個人が集まって話し合って倫理的な賢い集団を作り.その集団が倫理的に賢く集まって国を造ることであると知った.ただし,民主主義は無知な自覚のない民衆や世知にたけた狡猾な個人の手にかかると瞬く間に愚衆政治体制に堕ちるという弱さがあることも知った.民主主義はどんなことにも個人に責任がある.たとえば,投票すべき候補者がいなくて自分が選挙に行かなくて,それによって気に入らない政府ができて,気に入らない政策を展開したら,自分にもその責任があると考えるのが民主主義の根本である.これはinnocence and intelligenceの危なっかしい組み合わせだと思いながらも,自分で考え自分で判断し自分で責任を持つって,ああ,いいな,と思った.だから,大学院生になって,アメリカ大陸が生んだ三人の魅力的な女性(一人は忘れたが,もう一人は『風と共に去りぬ』のスカーレット・オハラ)の一人と言われるイザベル・アーチャーを知った時には感動した.
 イザベル・アーチャーはアメリカの小説家ヘンリー・ジェイムズの小説の主人公である.両親を亡くしたあと,叔母に引き取られてイギリスに渡る.テムズ川の岸辺まで続く広い芝生の庭に登場する.そこで従兄のラフルや,その友人のイギリス貴族ワーバートン郷に会う.そのワーバートン郷から結婚を申し込まれる.しかし,自分で考えて判断して断るのである.
 ある雨の日,階下から美しいピアが聞こえてくる.そっと階段を降りて行くと,応接間のピアノをマダムマールが弾いている.イザベルは知らなかったが,この女性はアメリカからヨーロッパに流れて来た根無し草で,同じ根無し草のオズモンドとの間にパールという娘がいる.マール夫人は素知らぬ顔でイザベルをオズモンドに紹介する.イザベルの目には,二人はアメリカでは見られない,ヨーロッパ文化の粋を身につけた人たちと映る.イザベルはパールの父親オズモンドと結婚する.後になって,娘パールに財産を持たせたくて,イザベルが受け取ると思われる財産が狙われたとわかる.結核で瀕死の床にいながら従兄のラルフは,必死でイザベルにオズモンドと離婚するようにと説得する.が,一晩泣き明かしたあと,イザベルは自分で考え自分で決めたことなのだからと,オズモンド,というよりパールの許に帰っていく.この小説は,アメリカのinnocence and inteligenceを具象化した典型的な作品である.ジェイムズはアメリカ人なのに死ぬ前にはイギリスに帰化するのであるが,アメリカのこの「純真な無知とまじめな知性」を愛おしむように小説にしたのだと私は思う.イクもオオ僕も「汚れなき知性の危なさ」を心の底では意識していたが,自分たちは森の中で自然に囲まれながら「純真な無知とまじめな知性」で生きていきたいと願っていた.
 しかし,自分で考えて判断して生きるということは,人生の責任をすべて背負うということである.言い換えると,究極的には,自分の死体を自分で始末する覚悟を持つということである.年をとってみると,いくら覚悟が出来ていても,頭はしっかりしているのに手足が不自由になるとか,あるいは手足はしっかりしているのに思考回路が壊れるという事態になることも多いにあり得ると知る.自分のことは自分で責任を持つという覚悟があっても実際には何も出来ない.年をとった今判ることは,老いるということは,今日は目がかすむ,今日は目はよく見えるが腰が痛む,今日はなぜかだるい,というように身体の機能点検で終わる毎日を過ごすということである.そこに明日はない.今しかない.innocence and inteligenceは若いアメリカの産物で,老いた今のアメリカにはもうかすかにしか残っていない.
 この国では,憲法ですべての国民は「健康で文化的な生活」を送る権利があると明記されている.ああ,戦後,いくらか年老いたアメリカが若き日に夢見た理想を日本で実験したかったのだな,と思う.年老いてから雨露を凌いで食事をして清潔で文化的な生活をするのは容易ではない.ごくまじめに働いてきた人も老後に「人間として」大事にされ「文化的に」生活をすることがおぼつかない.日本では「老人は幼児にもどる」という固定観念に支配されていて,年をとった人間は誰にでも「おじいちゃん」「おばあちゃん」と呼んで無個性化する.イクは名前を尋ねて,必ず「○○さん」と名前を呼んでいた.無個性化して,十把一絡げに集め,痴呆予防体操と称して「むすんでひらいて」をさせたり「お手手をぶらぶら」などをさせたりする.国は個人の節操(integrity)を守ろうとしない.私は憲法にうたう「健康で文化的な生活」とは「個人の節操(integrity)を守る」という国の覚悟だと思うのだが,国とはまったく認識が異なるように思う.そもそも,この国には「個人の節操(integrity)」という概念があるのだろうか.「個としての尊厳」を保つには,個人で老後の設計をしなければならない.そういう個人の努力についての制度上の支援措置などこの国にはまったくない.年金という制度があるけど,年金の中から国は所得税,後期高齢者保険,介護保険,町民税,県民税を取るのである.苦労して建てた庭のある家に住んでいると固定資産税も取られる.
 したがって,老後の「個としての人間的文化的尊厳」を守るには,まず健康で,人の二倍以上仕事をして稼いで,次の世代に死体を始末してもらえるように死体処理代(相続財産)を蓄えなければならない.健康を損なっていたり,普通に働いた程度では,自分なりに文化的生活を全うするには,自分だけでなく息子や娘の他に息子の連れ合いも巻き込んで絶望的努力をしなければならないのである.日本にも導入された「消費税」というのは,国民が年を取ったときに,国民全員んで,昔の「講」のように,助け合う手立てではなかったのか.ただそのために使う目的税ではなかったのか.政府は節操なく別の使い方もしている.
 国家不信という戦争の傷は,今も尾を引いて私を悩ませている.国は自分たちで作るものなのに,できた国はお上のように振舞って自分たちを家来のように扱う.自分たちも施しを求める,あんなに裸足で頑張ったのに何も変わらなかったのか.9月15日に89歳になった.後始末を指定して,イクのようにあっという間にこの世とおさらばしたいなと思う.

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