御殿場高原より 42 イク,十里木を覚えているか

イク,十里木を覚えているか

 イクはいつもオオ僕と一緒だった.何をしていても「イクも行く」と言ってついてきた.以前は,いろいろな店が御殿場駅周辺にあった.駅前の有料駐車場に車を置いて,イクとその辺を歩いた.駅前のアサヒ堂書店で本を買ったり,その前の喫茶店でコーヒーを飲んだり.映画館が二軒あって,文具の「いせまた」の主人がやっていた「マウント劇場」では,洋画を上映していた.「〇〇映画が見たいんだけど入れてよ」というと,映写技師でもある劇場主は「観客を90人ほど集めてくれたら」と言った.知り合いに「〇〇映画見たくないか?」と誘ったが,「行ってもいいけど,駐車場はどうしてくれるの」などのやっかいな注文をする人もいて,見たい映画は見せてもらえなかった.それでも劇場主は若い頃からの映画青年で,フィルムを借り出してくれたりした.私たちは売店でポップコーンを一袋買って映画を見た.まだインターネットなどなかった時代である.それから,駅前のビルの二階の古道具屋に寄って古い銀の置き時計など買った.路地の先にはマックスとか洋装店がいくつかあって,イクはよく入ってマダムとお喋りしていた.もう一本の通りにある装飾品店にも入ってイクは買い物をした.イクは確かな目を持っていて,美しいものを見つけることが上手であった.本屋の二階では,ときどき展示即売会あって,陶芸家が作品を並べていた.おソバのおつゆを入れるのにいいと言って,金粉を刷いた美しい器をイクは買った.
 駅前には富士急行のバス発着所がある.その前を通ったら「十里木行き」というバスが止まっていた.「十里木か.いい名前だな」と言うと,イクも「いい名前ね」と言う.「行ってみようか」ということになって,ある秋の日の午後にビートルに乗って二人で出かけた.一般国道469号線,「富士南麓道路」と呼ばれているらしい道で十里木高原に出る道を走る.この道のいいところは富士山のススキの原を横切ることで,夏にはススキが波打ち,秋の午後には広い一面のススキが西日を浴びて穂先が黄金色に輝いた.忠ちゃん牧場の入り口や富士サファリパークの入り口,クレー射撃練習所の前を通って十里木のバス停近くまで行った.近くにそば屋があったので,入ってそばを食べた.周囲の山の傾斜が美しいので訊いてみると,そば屋の女主人が,周りの山はみんな大昭和製紙のものだと教えてくれた.冬の様子を尋ねると,雪が降ると大変だという.しかし,金色に輝くススキの穂先と十里木という名前が気に入って,十里木に土地を持とうということになった.私は地主の孫なので,気に入った土地を見つけると買いたくなる.小学校四年生のときだったか,鳥取の祖父の家に行ったとき,散歩の途中で,祖父が梨の二十世紀畑の農家に寄って,縁側でお茶の接待を受けながら,「ここからあの山の麓まで,ずっとお前のものだ」と言われて,気持ちがよかったのだろう.たしか「海士」と書いて「あもう」と読む名前の所だった.散歩の帰りに近くの岩井温泉で黒い石の床のきれいなお風呂に入った.どうも土地が好きなようだ.二の岡荘の簡易水道の水源となっている川は荘内を通って二の岡フーズの近くを流れる.その川縁の百坪ほどの土地も木々が美しかったので,市街化調整区域と知りながら,買って今でも所有している.十里木の土地は行ってみたら溶岩だらけで,決していい土地ではないが,十里木という名前と落葉樹が多くて初夏の緑も秋の紅葉も美しいということで土地を求めることにした.ちょうど大昭和製紙が自社所有の土地を別荘地にして売りに出していたので,遠くに駿河湾の見える一番高いところを3区画買った.それから何年かは暇が出来ると,ススキの道を通って十里木に行った.いつもイクが一緒だった.別荘内には天然記念植物の「愛鷹ツツジ」の群生地があった.近隣の別荘の人たちとも知り合いになり,イベント会社の社長の家とか草木染め作家の家などでイクはお喋りを楽しんでいた.買った土地の斜め前の二階家は歌手の石川さゆりの別荘だと教えられたが,その時はその歌手の名前も知らず,歌も聴いたことがなかった.ずっと後になって「津軽海峡 冬景色」という歌でその歌手を知った.家にはテレビはあったが,お昼の11時57分からの天気予報と12時から15分ほどの短いニュースを録画して置いて,昼食後に,お茶で「とらや」の生菓子を食べるときに見るだけだった.お昼のニュースは解説がなくて短くてよかった.せっかく自然の中で暮らしているのだから,聴くのは風の音とか鳥の鳴き声とか,雨の音とか,静かさとかだけでよかった.ここでは音楽も騒音であった.
 十里木に出かけた時にはいつもバス停近くのそば屋でそばを食べて情報を仕入れていた.ここには小学校の分校があって,生徒はたった7人とのことだった.息子の足火がそろそろ小学校に上がるので,先生一人の分校がのんびりしていいだろうなと思い,是非通わせたいと思った.こういう親を持つと子供は苦労するのだなと思ったのはずっと後のことである.家を建てる算段をし始めた時に,そば屋の女主人から,その分校は来年廃校になると聞かされて,十里木に住むのはあきらめざるを得なかった.
 私たちの地方暮らしは田舎の住人に「よろしくお願いします」などと言って田舎の柵(しがらみ)に加えてもらうというようなものではなかった.田舎の人たちは頑固らしく,家に来ているクリーニング屋の旦那は隣県の山梨の人なのだが,「ここに来てもう三代になるのにまだ区別される」とぼやいていた.田舎では田舎の人には理解できない異人種として暮らすことが大事なのだと私は経験で知っていた.私は生まれたのは東京だが,父親の転勤で引っ越しが多かった.入学した学校を卒業したのは中学だけで,小学校も高等学校も途中で転校している.それで「よろしくお願いします」と言った途端に新参者として扱われることを知ったのである.それに,私たちは自然を屈服させながら生活をすることを好んだのではなかった.農家は雑草を敵のように刈る,庭木も生垣も常に刈り込んで自然を屈服させる.しかし,私たちは雑草にも花がつくことを忘れないでいたかった.その花も見たい.家の車庫の近くにはドクダミが沢山生えている.刈らずにその深い白の美しい花を見たい.少し前にはヤマユリが満開であった,この花はほぼ二日三日で散る.ユリは一年かかってたった二三日咲くために頑張ったのである.私たちはその頑張りを大事にしてやりたいと思うのだが,その二三日を待ってやらずに,ただ通りにくいというだけで,道にはみ出したユリを田舎では平気で切る.そうではなく,二三日待ってやってユリの花が落ちてからにしてやりたいのである.地上の専制君主としてではなく,自然の一員として,知的に自然と一体的な暮らしを私たちはしたいのである.しかし,こういう考え方は,自然の恵になれすぎて,あるいは自然の勢いに負けまいとして暮らしている人たちには理解できないだろうと思う.二の岡荘を出るとき,管理人の農家のおかみさんは,笑いながら「ここのどこが気に入ったか知らないが,長いこと暮らしたね」と言った.たぶん,ずうっと分からないだろうなと思った.
 息子が生まれて小学校へ通い出してから,彼は土地の子供たちと同じ価値観の中で生きなければならないので,親として私たちは町や学校の行事にもできるだけ参加した.イクも夏休み中のプールの監視当番をした.白い木綿のワンピースにレースの日傘を持って.それでも,息子は自分の家の価値観と田舎の価値観との違いに苦労したようであったが,私たちは楽天家なのか無神経なのか,足火は足火なりに対応していくだろうと信じていた.いや,実はそんなこと考えたこともなかった.私は,親からああしろこうしろと言われたこともないし,たぶん,イクもそうだろうと思う.親がご飯を食べさせれば,子供は元気で学校に行って勉強し友だちと元気に遊ぶものだった.子供は教科書があれば,どこに住んでいても充分に勉強することができるものだった.私には妹が二人,弟が二人いた.誰も親から勉強しろなどと,たぶん言われたことはないだろう.塾などにも通ったことはなかった.すぐ下の妹は勉強がよく出来て,同じ飯塚小学校に通ったときには,先生たちは私のことを「ああ,あの子の兄貴か」と言っていた.妹は悔しがり屋で,いつも学年で二番か三番で,一番になれないと悔しがっていた.冬はコタツで受験勉強をしたのだが,温かいから両手をコタツに入れて参考書を読んでいるうちに眠ってしまい,それを悔しがった.でも,一期も二期も国立大学にちゃんと合格していた,上の弟も東工大に入ったし,下の弟は家から歩いてだったか自転車でだったか通える大学に行きたいと言って家の近くの一橋大に入っていった.勉強は先生がいて教科書があれば十分と思っていたので,十里木の分校でもよかったのである.足火は,ここの北郷小学校を卒業することになったが,当時,田舎では中学校に入ると坊主刈りにならなければならなかった.足火は坊主になりたくないと言った.それではどこかの私立に入らなくてはならない.どのくらいの学力かあるか見るために四谷大塚の模擬試験を受けさせたら東京の開成中学合格圏内であった.が,そのために都会に戻ることをイクは好まなかった.
 十里木の土地はバブルの最中に,別荘の管理会社から,お宅の土地を富士市の鉄工所の社長が欲しがっていると言ってきたので譲った.買ったときより高くなっていたし,この先,何十年も原稿料で月に42万円のローンを支払っていくことに不安を感じはじめていたからである.
 イクは,そんなことは何も知らない.健康なせいかイクは自然の中で暮らして退屈せず,いつも明るい笑顔で不機嫌な顔を一度も見せたこともない.たぶん,イクはもう十里木のことなど覚えていなかっただろうと思う.昭和のアナログの世界で,ゆったり育てられて,cleverであるがwiseではなく,いつも「イクも行く」とオオ僕と一緒に行動した人だった.今,私の目には,女性たちが,イクとは真逆で,スマホの利用は言うまでもなく,中にはパソコンの操作にも男性と遜色なく,いやむしろ男性より巧みに利用しているように思われる人が多数いる.イクよりは機械の扱いに慣れているはずの私でも,能力が多種多様で羨ましく思う女性がたくさんいる.と同時に,心のどこかにその賢さを拒否する塊があることを意識している.たぶん,「いい名前だから,十里木に住もう」と提案したら,不合理性・非現代性を突いてきて即座に「別れる」と宣言されるだろうという恐怖が感じられるのである.こういう恐怖をイクは一度も感じさせなかった.

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