御殿場高原より 40 イク,蜩が鳴き始めたよ

イク,蜩が鳴き始めたよ

 今日は7月15日.一昨日の夕方,今年はじめて蜩(ヒグラシ)の鳴き声を聞いた.以前住んでいた二の岡荘では,7月20日まで霧に閉ざされるが,不思議に20日を過ぎると晴れて,その頃から夏の終わりまで,恵泉の本館の前の土の坂道を歩くと,周りの檜の幹からまるでシャワーのように蜩の鳴き声が降り注いだものだった.この声を聴いて少し経つと夏休みが始まって,恵泉山の家本館の庭の草芝の上には丸く椅子が並べられ,真ん中にキャンプファイヤーの薪が積まれる.女学園の生徒や学生たちがお祈りをする声や,賛美歌を歌う声,恵泉本館の台所からはキューリを刻むトントントントンという音が聞こえてきて,二の岡荘の夏が始まった.管理人の農家は青白い蛍光灯だったが,山の家々には暖色の電灯がともり,一年間イクと二人だけで静かだった二の岡荘は人の声,チェロの音,バイオリンの音が鳴り出して,息を吹き返したように賑やかになった.今,二の岡荘に行ってみると,小さな山の教会も,恵泉の本館も,イクと住んだ三号館も,跡形もなくなくなっている.彫刻家の木内克さんの上野のお宅に,イクが切って抱えて持って行ったマーガレットも,もう咲いていない.あれは遠い昔の若い日の夢だったのかと思えてくる.「二の岡フーズ」は今もある.店は繁盛して年末には行列が出来るくらいだ.だけど,ホールデンさんが書いたと思われるHam, Bacon and Sausages We Make Hereという,いかにもアメリカの田舎にありそうな素朴で温かい英語の看板は消えている.その素朴で真面目な暖かさ,あのゆったりとした生活のリズムはなくしてはいけないと思うのだが.街も時代の波に飲み込まれて街ではなくなっている.
 この60年の間に消えたものは沢山ある.街から八百屋が消えていった.白坂金物屋も消えた.酒屋の成美屋も消えた.おいしいレモンメレンゲのケーキを作っていたお菓子屋の「みやざきや」も和菓子屋の「梅月」もなくなった.「万年堂」も消えた.レコード店も消えた.イクが買い物を楽しんだ小間物屋や装身具店もなくなった.御殿場駅の周辺はスカスカになった.イクと住み始めたころ,御殿場線はまだ蒸気機関車だった.富士岡駅や岩波駅にはスイッチバックがあった.イクが仏文科に通うときに使っていた新宿と御殿場の間を走る小田急の特急「あさぎり」は二両編成のディーゼルカーだった.御殿場駅の周辺は未舗装であったし,乙女隧道はまだなく,長尾峠を越えて箱根に向かう国道138号線も穴ぼこだらけの砂利道だった.私たちは一日に3,4本,仙石原から長尾峠を越えてくる箱根登山のバスと,やはり一日数本の富士急行バスの東山循環しか通らない辺鄙な谷間に住んでいたのだ.
 しかし,街の人たちも,周辺の農家の人たちも,今よりも明るく元気でゆっくりしていたように思う.昔の御殿場郵便局の正面に出る駿河銀行の脇の細い道には,右側に佃煮屋さんがあって,イクと立ち寄ると佃煮が桶に盛られてまだ湯気が出ていた.その先の小さな店先では富士キャンプ場のアメリカ兵のために,まだ日本には入っていなかったケンタッキーフライドチキンをおじいさんが一人で揚げていた.電気屋さんがあり,洋装店があった.みんなそれぞれ店を持ち,仕事をして,顔が明るかった.まじめに働いていれば,みんななんとか生活ができた.地方の小さい会社でも,勤めるということは,当然正社員として働くことだったから,「日給月給」で休むと差っ引かれるような給与体系の会社もあったけれども,人並みにまじめに勤めていれば,子供を育てるという長いスパーンの人生設計が出来た.そうなんだ,昔は,会社は社員とその家族のために稼いでいたんだ.大きな会社には社員のためのグラウンドがあり,運動会があり,社宅があった.それがいつ頃からだろう,たぶん,東名高速道路が作られることになって,周辺の農家の田んぼが買い上げられて,そのお座敷に現金が積まれたころからだろう.家族主義と嫌われ,今のような効率を最優先にする会社になって,会社は,社員のために稼ぐのではなく,株主のために社員を働かせるようになった.家族主義.それは必ずしも悪いことでも時代遅れの日本だけの形態ではない.今では規則が拡大されているが,以前のイギリスの商法では,会社は人名を使うという規則であった.つまり,江戸時代に商店が人名を組織名にしたように,家族主義である.たとえば,世界に広がっている教育出版社のLongmanは創業者Thomas Longmanの名前の会社であるし,世界最初の近代的旅行会社はThomas Cook & Sonと言った.どこの国でも,会社は基本的には家族主義的であった. その家族主義は,いまでも欧米の会社の底には見られる.外目には見えないだけだ.日本ではグローバルスタンダードを錦の御旗として変革を追っているいるように思われてならない.そして,会社は,効率よく利益をあげるために人件費を削り,正社員を減らしている.親からゆとりを奪って,子供たちから夏休みを取り上げようとしている.本当は,どんな社会にも無駄と思われる部分が必要であり,無駄があることがむしろ正常なのであって,ゆとりのない余白のない無駄のない社会はむしろ異常なのだという「知恵」がいつの間にか消えてしまっている.国にはそれぞれその国に合った形態があるはずだ.駅前から小売店が消えてしまった.おいしい唐揚げを作ってくれていた「鶏岩」の旦那も店を畳んで勤めに出たという.みんなどこかに勤めに出ている.しかも非正規という待遇で.昔,そいういう待遇で働く人を「日雇い」と言った.この言葉には暗いイメージがついているのか今は使われないが,要するに「その日暮らし」である.いま,日本の労働人口の60パーセントは非正規だそうである.アメリカの労働人口の60パーセントは「その日暮らし」である.これで,先進国アメリカに追いついたというわけなのだろうか.グローバルスタンダードに合わせることは政治家の見栄で,それでは人々の生活は豊かにならないし笑顔は生まれない.今の人々の顔は尖っていて険しく見える.子供の20数年という長いスパーンの教育を考えることが出来ないし,子供の夏休みも,できれば短く,あるいは無しにして欲しいと願うくらい生活が逼迫しているそうである.私たちは,知らず知らずのうちに,自然から離れて,先祖が培った「知恵」を捨てて,「0と1」で組み立てられた現代文明に生き,論理や感情を無視して表層だけを組み合わせる生成AIのお世話になり,そのために必要な莫大な電力を得るために山を削り,原発を稼働させ,自然を破壊し,人々の暮らしを破壊している.
 オオ僕は,19世紀の「熱狂と理性」の希有の組み合わせからなるロマンティシズムの「自然の原初性と人間の理性の共存する希有なる世界」が,人間にとって最もふさわしい環境だと思っている.
 現代文化に対する警鐘は,とっくの昔に現れていた.イギリスのロマン派の詩人William WordsworthはThe Rainbowという詩の中でThe child is father of the Man.と言った.汚れない子供の原初的感動への回帰.このテーマは,形をかえて,20世紀のイギリスの小説家 D. H. ロレンスに引き継がれる.彼が死の直前に,たたきつけるように書いた本に『アポカリプス論―現代人は愛しうるか』(Apocalypse:福田恒存訳.筑摩書房)がある,その中でロレンスは頭でっかちになった「現代人はもはや愛することは出来ない」と叫んだ.訳者の福田氏は卒業論文が D. H. ロレンスだったが,この本を読んでものの見方が180度変わったと書いている.
 ロレンスの最後の小説『チャタレー夫人の恋人』(Lady Chatterley's Lover)(私家版1928,無修正版1960)は頭でっかちになった「現代人はもはや愛することは出来ない」という彼の主張を物語として提示したものである.その冒頭は

 「現代は本質的に悲劇の時代であるが,われわれはそのことについて悲劇的になることを断固として拒否している」(Ours is essentially tragic age but we refuse emphatically to be tragic about it.)

で始まっている.この命題はキルケゴールにもニーチェにも関係するのだが,小説では,ヨーロッパの知[頭でっかち]の象徴として,第一次大戦で下半身麻痺という怪我をした男クリフォード・チャタレーが出てくる.太陽系[自然]の一部という人間の象徴として森番のメラーズが出てくる.そして,ごく普通の現代人の象徴としてチャタレー夫人のコンスタンス,すなわちコニーが出てくる.
 この小説は性描写が克明すぎるという理由で,欧米でも日本でも裁判が起こされ,削除版しか出ていなかったのだが,英語では1960年以降は無修正版(unepurgated edition)になっている.
 その問題の箇所というのは,コニーが森番のメラーズと関係をする場面である.
 初め,現代人のコニーは,メラーズの行為を頭[意識]でとらえる.つまり,彼の指や体が自分の体でどう動くかを意識しているのである.それが克明に描写される.しかし,メラーズと関わりを持つうちに,コニーはだんだん,彼の動きを意識しなくなる.性[愛]がごく自然の全人間的生命現象と変わって行くのである.つまり,コニーは知の象徴である夫から,とは論理的で意識的な現代人から,離れて,原初的な感性をよみがえらせた人間に変貌していくのである.
 人間の本源[原初]的なやさしさ,それをロレンスは tenderness と言うのだが,「やさしさ」というもは自己を削り合って丸くおさまることではない.ぶっつけ合いながら生きることだと彼は主張した.実際,妻のフリーダとの生活はまさにそうであった.
 イギリスのノッティンガム地方で奨学生になって,ノッティンガム大学に入り,そこで世界でも有名な英語史のアーネスト・ウイークリー教授のもとで学ぶ.卒業した後,教授の家を訪ねたとき,七つ年上の夫人のフリーダと出会う.彼女は二人の子供を残してロレンスと駆け落ちする.ドイツへ逃げ,イタリーに逃げ,メキシコへ逃げ,またヨーロッパに舞い戻り,という生活をする.その生活はフリーダの書いた『私ではなく、風が』(Not I, but the Wind 二宮尊道訳・弥生書房)に描かれている.
 ロレンスは器用な男だったから編み物もする.それを見てフリーダは興味をもって「教えてくれ」と頼む.が,すぐ飽きですてる.喧嘩をする,ものを投げる,喧嘩別れをする.しかし,二人が深く愛し合っていたことはよく分かる.
 手付かずの「野性の(wild)」自然が求められているのではない.知的で理性的(cultivated)であり,かつ原初的であれと言うのである.そのような微妙な瞬間は,たとえば,三島由紀夫の『潮騒』では「その火を飛び越してこい」という言葉と共にお互いが素裸になるという形で美しく描かれている.女が男の前で裸になる,男が女の前で裸を見せるというのは原初の昔から人間がしてきた愛の形象化である.
 現在の知的偏重を原初の生命感性の喪失と指摘し,西欧文明の終焉を予言したのはロレンスだけではない.スペインの哲学者オルテガ,ロシアの哲学者ベルジャーエフなどたくさんいる.私たちはこの警鐘にとっくに耳を傾けなければならなかったのではないか.日常が知識の集積に終始し,論理的に納得することに専念する中で,「知識」と「知恵」を間違えていないか.生活から原初的感動が失われていないか.
 イク,オオ僕はこのような社会になることを予感していた.だからといって,野生の森で生活できるほど野性的ではないし,田舎の人たちの自然を屈服させるような生活もしたくない.清教徒的理性でコントロールされている美しい森で人間として生活したい.それが二の岡荘であった.オオ僕はイクと二の岡荘の森に逃げ込んだのだ.イクは直観的に二の岡荘を選んだのだと思う.イクは何に対しても無心で一生懸命で,しかも賢く自然の節度をわきまえていた.その目はいつも山の湖のように澄んでいた.だから,オオ僕はイクの目を濁らしたくないと思った.イクには現代社会の状況を出来るなら知らせたくなかった.もし許されるなら,一人くらい,そんな現代の悲惨な人間の状況を知らないまま,節度ある自然の感性の求めるままに生きていく人がいてもいいじゃないかと思った.それで,対世間はオオ僕が担当して防波堤になろうと思った.対世間のオオ僕と対イクのオオ僕の二役をこなしてオオ僕は頑張った.二の岡荘に住み込んだころのイクの写真がある.野外用のキャンバス地の椅子にあぐらをかいて座って編み物をしながら笑顔でこっちを向いた写真だ.オオ僕の好きな写真で,この笑顔を決して失わせないようにしようと決心した写真だ.足火が生まれてから,そのイクを感性を守るために,管理会社があって常に作業員がいて,二の岡荘よりもいつも自然をコントロールしている別荘地のこの土地を選び,家を建てて,周りをアベリアで囲った.オオ僕はイクの感性が生かされるような生活させたいと願った.だから,認知症が進んで,何もわからなくなってもドアは閉めなかった.ある日,オオ僕が仕事をしている間に,自分がオオ僕に迷惑をかけていると感じたのか,イクが独りで靴をはいて,御殿場の方向,つまり,静岡の実家の方向に,交差点を二つも渡って歩いたときまで.車で追いかけて見つけたときのイクの心許なそうな顔を今でも覚えている.認知症の頭の中ってどうなっているのだろう.認知症の脳の中は,普通の人と違って地図が白地図になっているのだろうなと感じた.オオ僕はいつもイクの近くにいてあげたいと思った.それで,「買い物に行くぞ」と誘うと,イクはただ助手席に座っているだけなのに「イクも行く」と起き上がった.オオ僕はいつもイクに声をかけた.一人ではもう靴が履けなくて,右足の踵の所に指を入れて靴に足を入れてやって「入ったか」と訊くと,イクは「入った」と言う.左足の踵に指を入れて「入ったか」というと「入った」と言う.こんなやりとりもオオ僕は好きだった.手を引いて玄関のステップを降り,裏の入り口に置いてあるイク用の椅子のところにくると,イクは「ここで待っている」と言って腰掛けて,オオ僕が車を回してくるのを待った.助手席のドアを開けて,イクの方を見ると,オオ僕の手を求めてイクは手を伸ばしている.今でも,その一つ一つのイクの動作や言葉が頭から消えない.イクはただオオ僕と一緒にいたいという気持ちを素直に出していた.書斎のソファに,それがぼろぼろになったので購入した介護用のベッドに,「私,ここ好き」と言って一日中寝ていた.それで安心していたのだろうと思う.今,夜中の1時過ぎごろ.玄関の網戸が開く音と共に「オオ僕」という声が聞こえたような気がして目が覚めた.イクはもともと方向音痴だったが,その上認知症になってしまって,どっちへ行けば三途の川を渡れるのかわからなくて困っているのかな.それなら裏の入り口に置いたイクの椅子に座って,富士山でも眺めながら待っていろ.やがて,がんばったオオ僕も死ぬ.最近,心臓に鈍痛があるから.私たちは庭に池は作らなかったから,一家が死に絶えても蛙がポチャンと飛び込んで遊ぶ池もなく,いずれ,この家もイクが作ったアルバムも,囲いのアベリアも,箱根バラもオランダウツギも,ブルトーザーで瞬く間に消されてしまうだろう.富士霊園のお墓の管理費は百年間は引き落とせるようにしてあるけど,おそらく,誰も訪れる人もなく,足火もイクもオオ僕も,すべて跡形もなくこの地上から消える.宇宙の何処にも痕跡が残らない.イクはオオ僕と一緒に生きようと選択してよかったか?

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