御殿場高原より 45 しづ心なく花の散るらむ

しづ心なく花の散るらむ

 新型コロナ以前,まだ,イクを独りにしても外出できたころには,「原典「平家物語」を聴く会」などに出かけていたのだが,外出できなくなってから,自分で『平家物語』を読み返している.私は男女の色恋沙汰をのぞき見するような『源氏物語』より『平家物語』の方が好きである.この物語を最初に読んだのは高校一年の時で,私が通った福岡県立嘉穂高校では始業前の30分は古文暗唱チェック時間であった.先生にランダムに指された者が前の学生の続きをそのまま引き継いで暗唱するのである.『徒然草』,『方丈記』,『十六夜日記』,『平家物語』などなどが集められている古文の教科書を暗唱した.今でも覚えているのは『平家物語』では「月見」の段で,

 葉月十日上棟,霜月十三日変遷と定められる.旧き都はあれゆけど,今の都は繁盛す.あさましかりつる夏も暮れて,すでに秋にとぞなりにけり.・・・

である.授業のとき,ここから少し先の

 うちより女の声にて「誰そや,この蓬生の露うち払らう人もなきところに」ととがめければ,・・・

のところで,みんなが下を向いて教科書を見ながら先生が読むのを聞いていたら,女の声が「誰そや,この蓬生の露うち払らう人もなきところに」と頭の上を飛んだ.一瞬,間があって,みんな爆笑した.女の声音で読んだのは,嘉穂高校の先輩で担任の梶原舜太郎先生で,広島大学教育学部(旧広島高等師範学校)の国文科を出て教師になったばかりであった.「これで,君たちはこの箇所を一生忘れないだろう.入試に出るといいな」と言って笑った.
 岩波,朝日,小学館など,古典全集はいろいろあるが,私の持っている『新潮日本古典集成』の『平家物語上・中・下』が,私が覚えているのとほぼ同じ節回しである.その新潮社版を読み返してみると,「あさましかりつる」の横に「意外なことの多かった」と現代語の注釈がついている.それでも通じるが,ちょっとニュアンスが違うように私は感じた.おかしいなと思って古語辞典で調べてみた.
 小山町の図書館はごく小規模であるが,古語辞典をはじめ,日本語辞典がいろいろ揃っていた.しかし,解釈はどの辞書も同じであった.そして,どの説明にも納得ができなかった.どの辞書も,古来からの字義解釈の書を参考にしながら,語源を「動詞あさ(浅)むの形容詞化」と解き,それから飛躍して,原義は「意外なのに驚く」の意と説明してすましている.「浅む」がなぜ「意外なのにおどろく」なのか説明がないのである.
 私は「あさましかりつる」は「意外なことが多かった」ではなく,「浅瀬で水が騒がしくなるように,いつもは沈着している心が浅はかにもざわめいた」とか「あさましくも自分が平常心を失ってしまって見苦しいところを見せてしまった」という意味と同時に浅瀬のざわめきが聞こえてくる表現で,現代の「あさましい」と心は同じではないのかと思っていた.そうでないと,古典人と現代人がまったく異なる日本語を使っていたことになる.古典を読む面白さは,何百年も昔の人も,今の人と同じように「息をして生きていたんだ」と感じるところにある.それを「あさましかりつる=意外なことがおおかった」ではまったくつまらない.
 学問的・科学的な正確さを求めると辞書もこのようになるのかな.たとえば,広辞苑で「六月」を引くと「一年で六番目の月」と出ている.ひところ話題になった『新明解国語辞典』でも定義は同じである.英語圏では有名な『コンサイスオックスフォード辞典』(COD)を引くと sixth month of year で,やはり日本の辞典と同じである.この辞書は music を引くと art of combining sounds of voice(s) or instrument(s) to achieve beauty of form and expression of emotion: sounds so produced: pleasant sound: e.g. song of bird, murmur of brook, cry of hounds. というような楽しい説明を入れているのであるが・・・.
 辞書の中でもっとも味のあるのは.高校生の時にバイブルクラスの牧師からもらって以来楽しんできた『ポケットオックスフォード辞典』(POD)であるが, June を引くと「バラと夏至が思い浮かぶ月」(associated with roses and midsummer) となっている.この視覚符牒列を読むと「バラの花と香り,蜂の羽音」やシェークスピアの『夏の夜の夢』(A Midsummer Night's Dream)の舞台,その中に登場する娘ハーミヤが即座に目に浮かび胸に迫る.視覚符牒から具体的なイメージが瞬時に浮かびあがり,音やセリフ(聴覚符牒)まで浮かび上がって心を動かす.辞典の楽しさはそいうものではないのか.Samuel Johnsonは1755年に版行したA Dictionary of the English Languageで,oatをa grain which in England is generally given to horses but in Scotland supports the people(大麦はイングランドでは馬の餌だがスコットランドでは人が食う)と定義して皮肉を飛ばしたが,瞬時に情景が浮かぶ.今はこういう型破りは許されないのであろう.現代では言葉に対しても自己規制的に優等生でなければならないようで不自由に感じられる.
 言葉は名詞と動詞で客観的事実を伝え,形容詞や副詞で主観的判断や心情を伝える.ただし,優れたプロは名詞と動詞で主観的判断や心情も伝える.たとえば,

この道しかない 春の雪ふる(山頭火)
この道や ゆく人なしに 秋の暮れ(芭蕉)

のように.やたらに形容詞や副詞を使うのはへぼか素人である.それで,プロは形容詞や副詞を使う時には一ひねりする.昔,そういう言葉の一ひねりの様態を体系化した「修辞学辞典」というものがあったが,今はない.多分,現代では,「綴り方教室」以来,素直に正しく言葉を使うことが良しとされて,修辞学で話題にしたくなるような言語表現がなくなったのかも知れないが,昔作られた面白い言葉遣いは結構あちこちに転がっている.たとえば,イギリスの詩人キーツやアメリカの寓意作家ホーソンなどの作品によく見られるProlepsis(結果予示法)というテクニックがあった.最も簡単な例を挙げるとHe lay his head on a sleepless pillow.である.a sleepless pillowのところがprolepsisで,「眠れない枕」というものがあるのではなく,「枕に頭をのせて横になったが眠れなかった」という結果を予示する形容詞の使い方で,形容詞が本来の位置を離れて別の名詞の修飾語になっているので,文法では「転移修飾語」(tranferred epithet)と言っている.Prolepsis(結果予示法)は日本語にもある.前にも書いたが「小人閑居して不善をなす」の「小」がprolepsisである.これは「人は閑居すると不善をして,結果,小人になる」という結果を先に「小人・・・」と述べたものである.主観的な判断・心情を表す言葉のこのような使い方は,単なる技巧ではなく,私には普通の文構造では伝えきれない心のひだを伝える工夫のように思われる.
 昔読んだ江藤淳の『夜の紅茶』というエッセイの中に

「私はソファでひと眠りしてから,おもむろに紅茶を飲む」

という箇所があった.「ゆっくり」と書かないで「おもむろ」としたことで,彼は自分の姿をちょっと離れたところから観察して「うん,いい.様になっている」と満足しているように私には感じられる.つまり,「ゆっくり」は動作のカテゴリー化であるのに対して「おもむろに」には主観的判断と感じられるのである.英語では「ゆっくり」も「おもむろに」もslowlyであるが,日本文のニュアンスを出すには

I drink tea slowly.(私はゆっくり紅茶を飲む)

と副詞を動詞の後の置くのではなく

I slowly [composedly] drink tea.

と副詞を前に置くだろう.これは,英語では主観的判断を示すapparentlyとかseeminglyを先頭か,あるいは述語動詞の前に置くのと同じ手法である.
 これは私の我流の修辞学であり,「表層符牒解読」(勝手読み)へのこだわりである.このこだわりは日本文を英語に翻訳する場合にもしっかり作用する.たとえば,

 私が再び真珠ホテルを訪れたのは,それから二年後になる.今度は冬であった.伊勢の風は意外と冷たくきびしい.・・・(曽野 綾子:真珠ホテル)

という日本文がある.最後の「伊勢の風は意外と冷たくきびしい」のところは

In Ise the wind was colder and severer than I had expected.

と訳しても文法的には問題ない.しかし,「表層符牒解読」(勝手読み)をすると,ここの「風」は「外気」というニュアンスが感じられるので windでは強すぎる.また,日本文が「伊勢では風が…」ではないので,英語でAt [In] Ise the breeze [air] was...は避けてThe breeze [air] at lse...としないと等価関係は守れない.次に,「冷たい」というのは風に対する一般的表現(カテゴリー化)であるのに対して「きびしい」はかなり主観的な感想である.少し掘り下げてみると「風が冷たい,だからきびしい」という感じで,風そのものがきびしいということではない.表現の層が違うので形容詞をA (cold) and B (sever)と並ぺても日本文の表現が表す意味は伝わらない.こういう場合,英語の修辞法では主観的要素を副詞に変える.たとえば,

The breeze was unpleasantly cold(more than I had expected).
The air struck unpleasantly cold (, colder than I had expected>.

のように.したがって,

伊勢の風は意外と冷たくきびしい.

The breeze at Ise was unexpectedly, uncomfortably cold.

とすると日本文とほぼ同じ印象を英文の読者に与えることができる.
 さて,このように,表層の符牒にこだわる「勝手読み」は,「あさましかりつる」と同じように,古文の形容詞や副詞の運用ににも神経を使う.たとえば,教科書に使われて有名になったと言われる紀友則の歌

ひさかたの 光のどけき春の日に しづ心なく 花の散るらむ

の「光のどけき」と「しづ心なく」という修飾語句のコントラストが気になってしかたがない.
 この歌に関しては千葉大学教授の鈴木宏子氏が『「古今和歌集」の創造力』(NHKブックス)で正統的な解説している.少し長いが簡潔な解説なので引用させてもらう.

 歌意は,日の光りものどかな春の日に,どうして落ち着いた心もなく,桜の花は散っていくのだろうか,というもの.麗らかな光の中で,とりたてて風もないのに,桜の花だけがしきりに散り急いでいる,という春の情景が思い浮かぶ.ハ行音の リフレインも耳に快い.静謐で美しい、と思った. しかしこの歌は,春景色そのものを歌っている わけではないのであろう.春の日ののどかであれ ばあるほど,作者は散っていく花が惜しくてたま らないのである.そして,その思いが「しづ心な く花の散るらむ」という下句,つまり,花を擬人化し早々と散って いく理由をいぶかしむことを通して,かたちをなしている.歌われる景の美しさもさることながら,花を惜しんでやまない「こころ」が,理性的な思考の装いによって,明晰な「ことば」として結実している点に,この歌の真の魅力がある,今の私は思う.歌われる 景と歌人の「こころ」とが、三十一文字の小さな詩型の中で,一つに溶け合っているのである.

 かなりよい解釈のように想われるのだが,「しづ心なく」のところの説明が私にはちょっと曖昧であるように思われる.昔,九州大学の教授をやめて郷里の飯塚市にもどり飯塚小学校の教員となって6年生の私たちの担任になった田中正太先生は「自分の言葉で言い換えることがが出来ないということは,まだよくわかっていないということなんだよ」と言った.同じことを一緒に仕事をしていた日本文学翻訳家のジョン・ベスター氏に三島由紀夫の小説の一節の説明を求められたときに,言いよどんだ私に対してベスター氏が言った.鈴木氏の説明がストンと胸に収まらないところを見ると,鈴木氏も自分の言葉で十分に言い換え説明ができていないということだと思う.桜の花が風もないのに競うようにはらはら散るのは当たり前のことで,そのことをことさら加えるということは少し饒舌に感じられる.何か別のことを言いたかったのではないだろうか.本当に「はらはらと散り急ぐ」様を擬人化して「しづ心なく」と言ったのだろうか.
 ちなみに,「しづ心」を使っている歌には,たとえば,

春は惜し時鳥はた聞かまほし思ひわずらふしづ心かな
         (清原元輔(清少納言の父)拾遺和歌集 1066)
(春の去り行くのは惜しい,と言って,時鳥の声はやはり聞きたい.あれこれ思い煩って落ち着かない心であるよ)

ことならは咲かずやはあらぬ桜花見る我さへにしづ心なし
            (紀貫之・古今和歌集 82)
(どうせ散ってしまうのなら,いっそ咲かずにいてくれた方がいいのに,桜が散るのが慌ただしいのだが,見ている自分まで,落ち着いた気分でいられないから)

などがあるが,どちらも「しづ心」は自分の心持ちを表していることに注目すると,友則の「しづ心なく」も花の散り方を形容しているのではなく,私には,友則の「しづ心なく」は「小人閑居して不善をなす」の「小人」のようにProlepsisで

(風もなくのどかな春の日なのに桜の花がはらはらと散り急いでいく.私の心の乱れることよ)

と言っているように思われる.そして,そこには「花の死」と重ねて「人の死」の影が感じられるのである.
 友則という人は技巧で人の意表を突くのが好きであったようである.意表を突いた最も有名な歌と言われているのは寛平年間に禁中で行われた歌合に参加した際に,「初雁」という秋の題で歌を競うことになったが,友則は「春霞・・・」と詠みはじめた.人々は季節が違うと笑ったが,第二句以下を聞いて恥じ入ったという.友則は「かすみて往にし雁がねは今ぞ鳴くなる秋霧の上に」と展開して見せたのである.(『古今著聞集』(鎌倉時代)ただ,この歌は『古今和歌集』の「秋上210」では「題しらずよみ人知らず」で「春かすみ かすみて去(い)にし かりがねは 今ぞ鳴くなる秋霧のうへに」となっているので,このエピソードは友則の歌風を利用した作り話とも解釈することもできるが,それほど友則の歌は技巧的であったという証拠にはなると思われる.
 友則の歌をいくつか並べてみる.

梅花を折りて,人に贈りける
きみならで誰にか見せむ梅花色をも香をもしる人ぞしる
                  (紀友則・古今和歌集春 38)
(あなた以外の誰に見せましょうか,この梅の花を.その姿の美しさをも香りに美しさをも,分かる人,あなただけが分かるのです)

さくらの花のもとにて,年の老いぬる事を嘆きて,よめる
色も香もおなじ昔にさくらめど年ふる人ぞあらたまりける
                  (紀友則・古今和歌集 57)
(桜花は,色も香も昔と同じに咲いているようであるが,おのずから年老いていく人は,すっかり変わったことであるよ)

五月雨に物思をれば郭公夜ふかくなきていづち行くらむ
                 (紀友則・古今和歌集 夏153)
(さみだれの降り続く夜,もの思いに心みだれてじっとしている折に,ほととぎすは,夜もふけてこの雨の中を鳴いてどこに行くのだろうか)
(梅雨のうっとうしいこのころ,もの思いに沈んでいると,その夜更け,時鳥が,悲しい声で鳴いて飛ぶ.いったいどこへ行くのだろう)

是定親王歌合の歌
秋風にはつかりが音ぞきこゆなる誰が玉章(たまづさ)をかけて来(き)つらむ
                  (紀友則・古今和歌集207)
(秋風に乗って初雁の声が,そら,聞こえるよ.誰の手紙を身に掛けて来たのだろう)

雪ふれば木ごとに花ぞ咲きにけるいづれを梅とわきておらまし
                 (紀友則・古今和歌集 337)
(雪が降るのでどの木にも雪の花が咲いたなあ.どれを梅だとして区別して折りましょうか)

夜ゐ夜ゐに脱ぎてわが寝る狩衣かけて思わぬ時のまもなし
                 (紀友則・古今和歌集 593)
(宵ごとに脱いでわたくしが寝るこの狩衣を「掛ける」という,そのように心に「懸けて」あの人を思わない少しの間もありません)

あづま路の小夜の中山なかなかに何しか人を思そめけむ
                (紀友則・古今和歌集 594)
(東海道のさやの山中がその道程の半ばにあるように,なまじ中途半端に,どうしてあの人を恋い慕いはじめたのでしょうか)

夕されば佐保の河原の河霧に友まどはせる千鳥なくなり
                 (紀友則・拾遺和歌集 238)
(夕方になって,佐保の河原の川霧にまぎれて,友とはぐれてしまった千鳥が鳴いていることだ)

 友則の歌は,当時の嗜好通り「自然に添えて感慨を詠む」という歌,たとえば,

寛平御時后宮歌合の歌
み吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける
                 (友則・古今和歌集 60)
(吉野の山々に咲いている桜花は,まるで雪かとばかり思いちがえられることだ)

もあるが,多くは,感慨を抱く自分のほかに「自分以外の人の存在」を匂わせるという技巧で「物語」(ドラマ)をうかがわせる.そして,どの歌もなんとなく艶やかで切ないのである.したがって,紀友則の歌(古今和歌集 春 84)

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

の詞書は「桜の花の散るをよめる」であるが,詞書を「春,友・父・母・娘・女・姪の散るをよめる」と言い換えてもいいような「自分以外の人の存在(死)」があり,それによる心の乱れ・切なさを私は感じてしまう.もしかしたら,私の「勝手読み」(表層符牒解読)の深層には,西行法師の「願わくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」とか,梶井基次郎の「桜の木の下には」(ベスタ―さんの優れた英訳は日本ペンクラブ電子文芸館でBeneath the Cherry Treesと打ち込むと読むことができる)が,あるのだろうか.いすれにせよ,古今和歌集の「自然事象+感慨」からなる教科書的な貫之の歌「ことならは 咲かずやはあらぬ 桜花 見る我さへに しづ心なし」よりは友則の歌の方がはるかに含みが深く優れている.
 友則は紀貫之の従兄弟で,古今和歌集の選者であったが,完成を見ずに没したという.因みに40歳すぎまで無官であった.それが,作歌に影響を与えているのか.あるいは,ある事象(たとえば,親しい人の死)をも材料にして定型に理性的にはめ込もうとする自分が救いようもなく悲しいのだろうか.楢枯れした庭の楢の枝が夜中に落ちる物音にイクかなと思ってしまって,ああ,イクは死んだんだった,と思い知らされるから,階段の手すりを手繰って音もなく上ってきて,ドアを開けて「オオ僕」と呼ぶイクの目は認知症になる前も後も変わらす澄んでいた.もう一度あの懐かしい目を見たいと思うから,友則の歌が胸にしみ入るのだろうか.おそらく,友則も同じような経験をしたのだろう.独りは寂しい.もう,生きている理由を見つけることができないという心と共鳴しているのだろうか.

[参考にした本]
小島憲之・新井栄蔵校注『古今和歌集』(新日本古典文学大系5・岩波書店)
小町谷照彦校注『拾遺和歌集』(新日本古典文学大系7・岩波書店)
奥村恒哉校注『古今和歌集』(新潮日本古典修正・新潮社)

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