御殿場高原より 32 機械翻訳

機械翻訳

 ここ数年,新型コロナや認知症の妻の世話で外出しなかった.我が家は朝と昼の二食で,妻が食べられるものを二人分,ほとんど年中同じものを自分で作ってきた.妻は手が震えるので,ナイフやフォークは使えず,手で食べるものとか小さいケーキ用のフォークで刺して食べられるようなものばかりなので,「料理」を食べたくなった.妻に在宅介護の見守り役をつけて,近くに出来たフランス料理で,予約の取りにくいレストランに食事に出かけた.メニューはなく,予約の際にコースを決めるという仕組みであった.たぶん,フランス語で料理を書いても,カタカナで書いてもわからないだろういう配慮だろう.でも,大人だけの空間でおいしい料理を食べられるのは嬉しい.広い窓から雪に覆われた富士山が見えるのもいい.それに床が外と同じ高さに造られていて,ステップを踏んだり,階段を上がったりしないのがいい.日本では上下移動が多すぎる.駅などみんな高架になってしまっている.今でも地面と同じ高さにホームがあるのは御殿場線の松田駅の特急の乗り場と小田急新宿駅の急行・特急ホームくらいしか思いつかない.だから,東京に出る時には車で松田まで走って,この駅で小田急の特急に乗り,小田急新宿駅で降りる.食事は,そこからタクシーで東京駅近くの明治ビル一階のレストラン「シェ・イノ」にしていた.この店は日本橋にあった時も今の店も,外と同じ平面に床があり,窓が大きくて気持ちがよかった.しっかり地面に接しているというのは安心と豊かさを感じる.料理には酒は付きものだ.弱い人や老人はちょっと飲んでも足下が怪しくなる.御殿場のこのレストランも地面にしっかりついていて安心で気持ちがいい.フランスとかイギリスに行ったときにもこういう床のレストランによく入る.このレストランはパリのRestaurant KEIのシェフが開いたものだ.ヨーロッパのレストランでは,実にゆっくりと時間が流れ,客とマネジャーが小声で料理について短くよく喋り合う.「このソースは何と何だ」と尋ねたり,「これ,ちょっと酸味がきいてうまいよ」とか.こういう会話も食事の一品である.このレストランではそれも出来そうだ.イギリスには「外食」(eat out)という習慣があって(というのは,イギリスの女性は世界一料理が下手と言われていて家庭料理は質素かお粗末で),定期的に夫婦とか友人を含めた少人数で「外食」する.日本の経済産業省は「レストラン」を不倫産業に分類しているが,ヨーロッパではレストランは夫婦とか友人ととかの楽しい大人の食事処である.週末など夫婦とか友人グループとか老夫婦とかでレストランは満員である.夫婦は時々レストランで,フランス語で書かれたメニューやワインリストからワインと料理を選んで,時間をかけてゆっくり食事を楽しむ.その代わり,彼らは普段のお昼は簡素でポタージュスープとパンとか,サラリーマンはパブでサンドイッチとビールハーフパイントとかで済ます・・・.それで思い出したのだが,昔,イギリス人と共著で英会話のテキストを作ったことがあった.一レッスンごとに,そのレッスンに関わる小話を書くことになって,「夜の食事時の会話」の課だったので,今考えると大変品のない小話を書いた.ワーキングクラスの夫婦が,たまにはレストランで飯を食おうと店に入る.メニューが出てくる.フランス語で書かれている.亭主は投げ出して女房に選ばせる.女房も困って,そっと指である行を指すと,ウエイターが「それはマネジャーの名前でございます」という.慌てて適当な所を指すと,ウエイターは「かしこまりました」と言って離れていく.二人はほっとして待っていると,フィッシュアンドチップスがお皿に盛られて出される.「おい,こいつはいつも新聞紙に包んで歩きながら喰ってるぞ.まっ,いいか.たまには皿で食うのも」
 今は,こんなことは起こらない.昔は母語しかわからなくてレストランに入れなかったワーキングクラスの人でも,今は平気で入って,グーグル翻訳を選択して,スマホをメニューにかざすと,メニューが画面に英語になって示されるからである.利益の追求と便利の追求はそこまで来ているのだ,が,それから,どうするのだろう.読めなければ声で伝えることは出来ない.「これ」と指さすのだろうか.もうすでに,指差しながらスマホに向かって「これにする」と言うと,スマホが英語やフランス語で伝えるようになっているのだろうか.しかし,これって,なんだか滑稽だ.近頃の病院のようだ.最近の病院では,医者は患者の目も顔色も見ないで,パソコンのデータを見て診断するが,それと同じで,お互いが目の前にいるのに,互いがスマホの画面を見たり,スマホに耳を傾けたりする.お互いに耳と口を使っているが,それはスマホに対してであり,商談は翻訳ソフト越しにする.ウエイターがそっと耳元で「ニューポテトがあるぞ」と耳打ちする場面はあり得ない.そう,レストランの食事も味の感想とか言葉の遊びとかを必要としないビジネスになったのである.滑稽な例だが,男と女の関係も,娼婦と客の間ではビジネスだから翻訳ソフト越しもあり得ることになる.まさか,異国人同士の恋愛まで・・・?
 異国人同士の恋愛はビズネスではないから,こんなことはあり得ない(と信じたい).いや,きっかけはスマホ越しかもしれないが,スマホの翻訳ソフト越しでは結婚に至らないだろう.結婚に至るには,感情や主観が籠もった言葉のやりとりが必要だから,二人の間にスマホの入る隙間はないだろうから.
 私はこんなスマホ翻訳の社会に棹さしたくないが,「人間の言語の仕組みの解明」という関心から「翻訳・機械翻訳」という手段を通して言語の変換・翻訳を考えなければならない羽目に落ちいっている.
 機械翻訳の発想はフランスの哲学者デカルトにまで遡ることができる.大学院生のころ,コンピュータの理論が学びたかったらフランスへ行け,コンピュータのソフトが作りたければアメリカへ行けと言われた.フランス人は数理的に原理を考えるのが好きである.デカルトの機械翻訳は「言語」の数理的処理の可能性への関心(私の関心も同様だ)で,現在の機械翻訳はその成果の証明のようなものである.したがって,機械翻訳は一部の人間が専門的に,あるいは趣味的に扱うものであったのだが,いつの間にか,言語そのものに対する関心からコンピュータで言葉を処理することそのものに関心が移ったようで,異言語が使えない言語難民のための電子処理器に進化しているような感じである.
 普通の人は「翻訳(translation)」は固有言語表現と固有言語表現の相互の「置換」((replacement)と考える.これはヨーロッパではかなり現実的であるように思われた.それはヨーロッパの言語が同一語族あるいは近接言語で,文法構造がほぼ同じだからで,単語の置換で情報(イメージ)順に処理することが可能であるように思われたからである.たとえば,

English:    He went to London  to study English.
Spanish:   Se fue     a Londres   a estudiar inglés
French:    Il est allé  á Londres   étudier l’anglais.
German:  Er ging nach London, English zu studieren.

English:    (Please)     Give me            a   glass of water.
Spanish:   (Por favor) Deme               un vaso de agua.
French:                      Donnez-moi     un verre d’eau, (s’il vous plait).
German:                    Geben Sie mir  ein Glas Wasser bitte.

 しかし,語族(language family)の異なる日本語と英語の移し替えは,言語の固有性のために,{単位情報}(一つの動詞とそれを支える一つ以上の名詞の塊)の変形(transformation),たとえば,

 「お散歩ですか」   「ええ」
 "Are you taking a walk?" "Yes."

にまで及ばなければなければならず,さらに,表層表現に隠されている含みまで求める「究極の変換(conversion)=翻訳(translation)」は,たとえば,

 「お散歩ですか」          「ええ」
 "Are you out for a walk?" "Yes."

を想定しなければならない.
 したがって,「言語の変換」は,大きく分けて三つの段階を想定せざるを得ない.

1 単語を置き換えるだけの処理(単語置換)
2 単位情報(イメージ)配列・言語論理の変更処理(言語変換)
3 単位情報と固有表現の創作的変換処理(翻訳)

 1は言葉に含みを持たせていない「表層完結文」,たとえば,メニュー,契約書,ビジネス的言葉の遣り取り(「いくらですか」「50円です」)である.
 2は表層完結的で多少含みのある文,具体的には高校一年の英作文レベルの文で.「1と2の中間」に属するもの(昨日,通りを歩いていて田中に出会った.)であろう. 
 3は,表層に含みのある文,具体的には小説などである.たとえば,

 待ちかねた日は,朝から灰色の雲が垂れこめて,今にも白いものが落ちてきそうな空模様になった.(夏樹静子『雪の別離』)

 日本語も英語と同様に論理的であるのだが,英語がその論理性を表面に出すのに対して日本語は文脈の中に流し込んでしまう.たとえば,「白いもの」が「未知なる白いもの」なのか「既知なる白いもの」なのか,英語では冠詞によって示すのに対して,日本語では,たとえば,
  「部屋のすみに白いもの(=未知なるもの)があった」
  「今にも白いもの(=雪)(=既知なるもの)が落ちてきそうだった」
のように,文脈の中で決まるのである.したがって,日本語を英語に訳す場合には,日本語の個々の表面上の意味を英語に置きかえるのではなくて,文脈の中の論理を英語の論理に乗せて訳さなければならない.つまり,日本語を

「待ちかねた(その)日(に)は,朝(早く)[明るくなったとき]から灰色の雲が(低く)垂れこめて(いて),今にも(例の)白いものが落ちてきそうな空模様になっ(てい)た(→空は今にも例の白いものが落ちてきそうであった).

と補って訳すと

On the long-awaited day, the leaden clouds were hanging low from early morning, and the sky looked as though the white flakes might start falling at any moment.

となる.これは機械翻訳では出来ない.現在行われている機械翻訳は「1に近い2」のレベルである.初級(高校一年程度)用英作文(1と2の中間)をグーグルの機械翻訳にかけてみよう.日本文・人手による変換・グーグル翻訳(Gマーク付きのもの)の順に並べてある.

私は毎朝,朝食前に朝日新聞を読みます.
I read The [the] Asahi (Shimbun) before breakfast every morning.
I read the Asahi shimbun every morning before breakfast. (G)

この美術館にはレンブラントの絵が二点あります.
There are two Rembrandts in the museum.
There are two paintings by Rembrandt in this museum. (G)

昨日は六件も火事が発生し,消防隊員は大忙しだった.
Six fires broke out yesterday and the fire brigades were kept very busy.
Six fires broke out yesterday, keeping firefighters very busy. (G)

彼は駅前のアパートに住んでいますが,そのアパートにはほかに八世帯が住んでいます.
He lives in an apartment house by the station, which is inhabited by eight other families.
He lives in an apartment house by the station, where [in which] eight other families have their homes.
He lives in an apartment house by the station, and there are eight other families there [in it].
He lives in an apartment in front of the station, but there are eight other families living in the apartment. (G)[in front of the sataionは「駅の敷地内のすぐ前」の感じ.ここの「が」は話題導入で逆接ではないのでbuttではない]

「机の上に本があります.その中に英和辞典があったら持ってきてください.」
“There are (some) books on the desk. Please bring me an English-Japanese dictionary, if you find [if there is] one among them.”
“There are books on the desk. If you have an English-Japanese dictionary, please bring it to me.'' (G)[グーグル翻訳は,次のように,時間によって異なる変換文を出す.]
“There is a book on the desk. If you have an English-Japanese dictionary, please bring it with you.'' (G)

我々は昨日田舎の道をジョギングしたんだが,道はたいへんぬかるんでいた.
We jogged on a country road yesterday. The road was very muddy.
We jogged on a country road yesterday and the road was very muddy. (G)[この「が」も話題導入で逆接ではない.それでbutではなくandと正しく訳している.]

「お宅ではみなさんおかわりありませんか.」
“Are your family all well?”
“Is everyone doing well at home?” (G)[この「では」は「の」の意味であるが,場所の副詞句として訳している.]

子供は犬とか,猫とか,汽車とか,自動車とか動くものが好きだ.
Children like moving things, like dogs, cats, trains, cars.
Children like things that move, such as dogs, cats, trains, and cars. (G)[「連体修飾節+体言」は「(代)名詞+関係詞節」というルールで処理している.間違いではないが非日常的である.]

「今朝は何を食べた?」「ハムエッグにトースト二枚だ.」
“What did you have for breakfast this morning?”“Ham and eggs, and a couple of slices of toast.”
“What did you eat this morning?”“Ham and eggs, and two pieces of toast.” (G)[piecesはちぎったくらいの大きさに使う.]

この公園には子供用のプールがあって,冬はスケート場になる.
In this park there is a children's swimming pool, which is used as a skating rink in winter.
There is a children's swimming pool in this park, and it is used as a skating rink in winter.
This park has a children's pool and becomes a skating rink in the winter. (G)[これでは公園がスケート場になってしまう.]

かわいそうに,彼はまだ三十のなかばで,これからというところだったのに.
Poor manーhe was only in his mid-thirties, with his best years before him.
The poor man was only in his mid-thirties. Just when he had his best years before him.
He was only in his mid-thirties, poor man, with his best years [the best part of his life] before him [in front of him; still to come].
Poor guy, he was only in his mid-thirties and on the way. (G)[「これから・・・」以下のような含みのある文は訳せない.]

 ただ,「表層完結文」(言葉に含みにない文)で書かれたものなら,小説でもかなり変換できる.

 二十代の前半,今はなき六本木のミスティーに何度か行ったことがある.そこで歌う女性ボーカリストの姿を,私はうっとりと見つめていたものである.
 彼女たちはまず水割りを飲む.飲みながら,常連らしい客と楽しそうに言葉を交わす.そして,ピアノ弾きやジャズメンと顔を見合わせてにっこりする.それからやっとおもむろに喋りだすのだ.それはたいていかすれ声だった.
 「みなさま,よくいらっしゃいました.ミスティー,第三回目のステージ・・・・・」
                                                 林 真理子『ブロッサムのように』

[東大の言語学専攻の卒業生の訳]
In the first half of my twenties, I went on several occasions to "Misty" in Roppongi--now no more--where I would gaze in rapture at the lady vocalists who sang there.
First, they would drink a whisky with ice and water. As they drank, they would exchange cheerful remarks with what seemed to be regular customers. Then they would exchange glances with the pianist and jazzmen and smile. Finally, they would slowly start to talk. Their voices were usually husky:
"Ladies and gentlemen, welcome to Misty! We now present tonight's third performance..."

[プロの翻訳家の訳]
On a number of occasions in my early twenties, I went to the now defunct "Misty" in Roppongi, where I would sit gazing enraptured at the female vocalists who sang there. They would start by having a whisky and water. As they drank, they would exchange pleasantries with what I took to be regular customers. Then they would catch the eye of the pianist and jazzmen and smile. Finally, taking their time, they would start their speech; their voices were usually husky:
"Ladies and gentlemen, welcome to Misty! We now present tonight's third session..."

[google翻訳の訳]
When I was in my early twenties, I went to the now-defunct Misty in Roppongi several times. I used to stare enchantedly at the female vocalist singing there.
First, they drink water. While drinking, I happily exchanged words with a customer who seemed to be a regular. Then, they look at each other and smile at the piano player and the jazz players. Only then did he begin to speak freely. It was usually a hoarse voice.
"Thank you everyone for coming. Misty, third stage..."

 機械翻訳という自然言語処理の研究は,日本では1950代に九州大学ではじまたのであるが,今から20年ほど前に,三日間(午前に理論三時間,午後に実習三時間という過酷なスケジュールで)京大で行われた「自然言語処理講習会」に出席し,修了証書をもらった後に開かれた懇親会で,当時ティーチングアシスタントしていた河原大輔氏(今は早大教授かな)に「今の段階で英語から日本語へは60%,日本語から英語へは30%くらいしか出来ず,実用にはほど遠いが,何とかなるのか」と尋ねたら,「もう40年経ったら,何とか」という答えが返って来た.それから20年経った一昨年の十一月であったか,グーグルが機械翻訳に深層学習(deep learning)の手法を取り入れて,機械翻訳が飛躍的に進んで,高校一年程度の和文英訳のレベルの「表層完結文」(意味に含みの少ない文)であるなら,上に示したようにかなり正しく変換出来るようになった.
 ただし,「小人閑居して不善を為す」のような,修辞学でいうprolepsis(結果予示法)というような含みのある文はまったく駄目である.この日本文において「小人」は最初からそういう範疇の人がいるのではなく,「閑居すると普通の人でも不善をして,結果,小人になるぞ」という意味で,結果を先に示す技法prolepsisで纏められている文である.修辞学という学問はすでに廃れてしまっていて,この技法は,現在では,文法の中の一分野にかすかに残って,tranferred epithet(転移修飾語)という分野に分類されている.たとえば,He lay his head on a sleepless pillow.ではsleeplessが転移修飾語で結果を表している.この文は「彼は枕のうえに頭をおいて横になったが眠れなかった」という意味になる.
 「小人閑居して不善を為す」を「グーグル翻訳」にかけると
 Dwarfs live in seclusion and do evil things.(こびとは隠遁生活をすると邪悪なことをする)
と変換する.元の日本文を表層完結文にして
 「ごく普通の人でも閑居すると悪いことをしかねない」
として翻訳機械にかけてみると.出てきた変換文は
 Even ordinary people can do bad things if they stay quiet.
と出してくる.もう少し日本文に主観を含めて.
 「善良な人でも閑居すると不善をしかねない」
にすると,
 Even good people can do bad things if they stay quiet.
と出てくる.このquietをidleに変えると,「小人閑居して不善を為す」に最も近いと思う.しかし,私の英語感覚ではgood をdecentに,peopleをcitizensに変えた方がいいとは思うのだが,そうすると「含みのある主観文」になってしまう.
 機械翻訳の精度は格段に上がったが,機械による言語変換は含みのある文は適正な変換が出来ないということである.したがって,今以上の訳文が出てくるまでには,あとさらに20年必要なのかも知れない.
 今では含みのない文字列,たとえば,フランス語のメニューにスマホをかざせば日本語に翻訳されたメニューを見ることができる.フランス語が出来なくても英語がしゃべれなくても「これ」と指させば,間違いなく食べたい料理が食べられて,夫婦や友達は日本語で楽しく喋り合うことが出来る.そう,食事とか,買い物とか,原始的な欲求を満たすには機械翻訳でもいい.知り合うきっかけにはスマホを向き合わせたことてもいい,だけど,現在の機械翻訳は間違っている文でも間違ったまま翻訳する.ということは悪意のある文もそのまま翻訳するということである.何時の日か,機械が「この文はここが間違っている」とか「この文は内容が法律に反している」とかで,翻訳を拒否することになるのだろうか.それはそれで,怖い社会になる.人間の文化的生活を支えるには自分の口と耳と手が必須の道具である.

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