御殿場高原より 22 英語の辞典

英語の辞典

 私が高校生のころ,岩波書店から田中菊男編の『岩波英和辞典』が出た.田中菊男は,学校は高等小学校しか出ていない.しかし,勉強して小学校の代用教員になり,検定試験に合格して正教員になる.東京に出て鉄道省に勤めながら,斉藤秀三郎が創設した神田の正則英語学校の夜学に通い,中学校教員検定試験に合格,更に高等学校教員検定試験に合格して旧制富山高校,旧制山形高校,更に新制の山形大学で教えた人である.私が釜石高校で特訓を受けた山崎先生も学校は小学校しか出ていないが,釜石港に出入りする外国船の船員から英語を学び,通訳をしながら検定試験に合格して高校の英語教員になった人だった.私は山崎先生から,当時,検定試験は過酷で,ほんの一握りの人しか合格できないものだったと教えられた.山崎先生はどんな英文も一読して,文を分析して解説してくれた.検定試験で教員になった人は本当に英語がよく出来ると,後にお世話になったZ会創業者の藤井豊氏からも聞かされた.『岩波英和辞典』はそういう人が編纂した辞書であった.一段組みで,単語の基本的な意味が書かれ,次に相応する訳語が与えられていた.辞典の説明によると,「訳語は一つの例にすぎない.適切な訳語は各自文脈で決めること」となっていた.これは時枝誠記の考えとも同じで,時枝氏はその実践例として『例解国語辞典』(中教出版,1956)を出していた.私は愛用していたが,最近見かけないので絶版になったのかも知れない.私はこの『岩波英和辞典』が気に入って,楽しんでいたが,初版で廃版になった.改訂新版の解説によると,自分で訳語を決めるという方式は日本では馴染まず不評ということであった.辞書は時代の要求に応えなければならないので,変化しなければならないのだろう.PODも版を重ねるごとに変化しているが,味は代わらない.たとえば,musicはMusic (-z-), n. The art of expressing or stirring emotion by melodious & harmonious combination of sounds,...と説明して,更に「心地よい音なら何でも」(any pleasant sound)で,たとえば,「小川のせせらぎ」(the brooks)や「猟犬の吠えたてる声」(the hounds),最後には「あの女(ひと)の声」(her voice)までmusicに入れている.ただ,手持ちのPOCが古くなったので,注文したら,日本からの注文ということのせいなのかSouth Asia Editionが送られてきた.Juneを引くと,案の定,the sixth month of the yearと出ている.これは,第二言語として英語を学習する人のための辞書で,元の英語ネイティブ用のPODにはJuneはA MONTH associated with roses and midsummerと味のある語義が書いてある.最近はコンピュータによるデータ処理が盛んになったせいか,辞書から個性が失われてどれを使っても同じで,つまらなくなった.
 英文の解説原稿を書くようになって,いろんな辞典を使ったが,それはZ会(現在は増進会出版社というのだろうか)という通信添削の藤井豊氏のおかげである.氏の原稿チェックは厳しくOKをもらうのは並み大抵ではなかった.藤井豊氏は山口の出身,父親は明治政府の通詞で,家には分厚いウエブスター英語辞典があったそうである.氏は明治専門学校(今の九州工業大学)を卒業している,この専門学校は当時工学士の称号を授けることの出来る工学の最高学府だったそうで,英語が重視されたという.私が入学した県立嘉穂高校でもそうであったが,当時は受験に失敗した卒業生のために高校には「補習科」が設けられていた.藤井氏も補習科で英語を教えたのだが,だんだん難聴になって教壇に立てなくなり,通信添削という仕事を始めたのだという.その初期の受講者の中には,後に英語学者になる毛利可信氏がいて,英文和訳の問題の英文にan apparently endless warという箇所があり「明らかに終わりのない戦争」と訳したら,藤井氏から「いつ果てるとも知れぬ戦争」と添削されたので質問したら,「apprentlyはappearから派生したもので「あきらか」では意を尽くさぬことあり」と返事が来て,毛利氏は以後,Z会の英語を信じて勉強したそうである.藤井氏の周りには日本の英語学者の錚々たる人たちがいて,無記名の執筆者としてZ会の英語科を支えていた,私は高校一年生用の原稿を任されていたが,藤井氏から徹底的にチェックされ,「あなたは英文の説明が甘い」と文句を言われた.つい「僕は文学ですから」と言ったら「英文の分析の甘い英文学もないでしょう」と笑われた.私は高校二年の冬休みに北星堂から出たばかりの『新英文法総覧』を丸暗記していたので自信があったのだが,それでは氏の要求に応えることが出来なかった.「じゃあ,文法をやり直します」と言ったら,書斎からイェスペルセン,クルジンガー,ポーツマ,アニアンの文法書を始め,斉藤秀三郎の文法書,細江の文法書を運び出して来て,読んで疑問が生じたらいつでも質問してよいと言って持たされた.さらに当時研究社から分冊で出ていた『英文法シリーズ』を自分で買って読んだ.だんだん藤井氏に文句を言われない原稿を作ることがで来るようになったが,ちょっと気負って説明すると,氏に言われた.「知識を振りかざしてはいけません.何しろ学生はやっと歩き出したのですから.先生はこんなことも知らないのかと馬鹿にされるくらいがいいのです.ただ,質問されたら正しいことを的確に教えることが大切です」と.藤井氏はCODをほぼ完全に覚えているようで,「CODにはこう書いてあるはずだから,そのように訂正してください」と私の原稿を直させたり,単語のニュアンスがつかめないで困っていると「WyldのUniversal Dictionaryを引いてみるといい」とアドバイスをくれたり,平易な英語の説明はアメリカのThorndikeのHigh School Dictionaryがいいと教えてくれたりした.私は藤井氏のおかげで,英語にも英語の辞書にも詳しくなった.
 その頃,研究社から『ユニオン』(現在の『ライトハウス』)という辞書が出た.フルセンテンスの例文と文法説明を加味した初級の学習用辞典であり,研究社の見識を示した辞典であった.が,七割の出来であった.例文は英文としては正しい,訳文も日本語としては正しい,しかし,英文に対する日本文として正しいかと言うと必ずしもそうでない場合が一ページ平均三割ほどあり,七割の出来であった.語法の説明にもミスがあって,たとえば,I'm happy to...= I'll be happy to...喜んで・・・いたします,と説明されていたが,I'll be happy to attend the party.とは言うけれど*I'm happy to attend the party.とは言わない.今は改良されているだろうか.異言語の正しい言語情報を得るには大変苦労する.アメリカ人が「おまえ,お昼食べましたか」と言った場合,発言意図がわかれば日本人は訂正しない.同じように,日本人が少々間違った英語を言っても,発言意図がわかれば,英米人もいちいち訂正しないのである.
 もう少し大きな辞典にも文法説明があるといいのだが・・・と思っていたら,小学館から『プログレッシブ英和中辞典』が出た.これは『ユニオン』より文法の説明が詳しく,教師や専門家には好ましいと思われた.これには明治大学の堀内さんが編集に加わっていたが,単語の使い方の説明がきわめて的確であった.彼とは何時だったか一度イギリスに行く日航機で一緒になったことがある.私は飛行機の中でも時間感覚調整のため眠らないで仕事をするのだが,彼もそうらしく,「機内で眠らずに仕事をしているようなのはあなた方二人だけです」とスチュワーデスに笑われた.堀内さんからは「辞書部にはあなた係がいて,あなたの書いたものはすべて集めてあるんですよ」と言われた.堀内さんはニューヨークにも仕事場を置いて言葉を収集していると聞いたことがある.
 何年かこの辞典を使っていたが,その間に,日本の英語もうるさくなり,細かくなっていった.その時代の要求に応えるかのように,大修館から『ジーニアス英和辞典』が出た.これは語彙文法の成果で,なるほど詳しい.
 便利な辞書であるが,率直に言って,語彙文法の成果の寄せ集めで,文法の解説に統一がなかった.初版では,たとえば,「I like cats.とは言うがI like a cat.とは言わない」というような誤解を招きかねない詳しさがあった.普通,「猫が好き」はI like cats.と無冠詞で複数形にして言う.しかし,ペット屋でどれにしようかなと考えて,犬,猫,カメレオン,オウム,など出して貰う.店主が"Which do you like?"(どれになさいますか?)と尋ねたとき,「猫にするわ」に対応する英語は"I like a cat."である.もちろん,版を重ねるごとに順次訂正されていったが,この辞典を使い始めると英文を書くのが怖くなる.自分が今書いた on は正しいのか,と確かめたくなるのである.この辞書は,初級の学習者に持たせるものではないと思った.教師が生徒の質問に答えるには便利のように思う.かつて私がしたように,教師は文法書をめくる必要はなくなるからである.その意味で,この辞書は受験英文法の極致のようである.教育界から非難された「受験英語」が辞典の形に集約されたように感じられた.
 現在,私は辞書の字が細かくて虫眼鏡を使っても苦労するので,パソコンに入れて辞書を使っている.最近はどの辞典もパソコンで読めるようになっている.最初に入れたのは『ランダムハウス英語辞典』である.この辞典も初版はひどかった.たとえば,come up withについてアメリカの原本でproduce(ここでは「考え出す」という意味)と言い換えていたので,「生産する」などと訳語が付けてあった.その後改訂されて,現在はバランスのとれたいい辞書になっている.私がこの辞書をパソコンに入れたのは,早くから発音に対応していたからである.単語を打ち込んで,単語のすぐ隣のスピーカーマークをクリックすると即座に発音が聞ける.これは紙の辞書では出来ない.私は単語を引くと必ず音を聞く.英語はPhonics(綴字と発音の規則性を教える分野)が効かないからである.たとえば,enough; although; throughなど綴字ではoughを持っていながら発音はみんな異なるのである.他には,斎藤秀三郎の『熟語本位英和中辞典』(岩波書店)が入っている,古いが,いまでもいい辞書である.たとえば,「理由を説明する」に相当する英語にはgive the reasonを使うが,tell the reasonも間違いではない.どう違うか.give the reasonはthe reason に比重があるのに対してtell the reasonはthr reasonに比重があるのではなく「誰かに理由を打ち明ける」という意味合いになり,たとえば,He does many strange things and won't tell the reason.のように使うのだが,「熟語本位」と謳うだけあって連語的に使う英語の表現(意味の比重)をさりげなく(とは,気がつく人には気がつくように)配置されている.つまり,英語が斉藤流に統合的に整理されていて気持ちがいいのである.今では英語に関する知識が豊富な人はたくさんいるが,自分の頭の中に統合的に英語が出来ている人は,斉藤の他には毛利可信と江川泰一郎しか知らない.他には,パソコンには,研究社の『新編英和活用辞典』が入れてある.これは自分の書いた英文をチェックする時にときどき使う.
 最近は,ネイティブのための辞書(たとえば,コリンズのConsice English Dictionary)に対して第二言語学習者用の辞書(たとえば,コリンズのコウビルド英々辞典,ロングマン現代英英辞典,オックスフォード現代英々辞典,など)がたくさん出ている.コンピュータによるデータ処理のおかげである,辞書作りにコンピュータを利用したのは,ロングマンの若い(40代)の重役だが,彼によると,一つのデータから設定を変えると,一瞬で20くらいの辞書が出来るとのことだった.が,ある夏,ロンドンで会ったら「あまりお金をつぎ込みすぎてロングマンを首になっちゃった.けど,すぐコリンズに誘われて,今,コリンズで同様の仕事をしている」と笑っていた.辞書作りの話は三浦しをんが『舟を編む』に書いているが「用例採集」という言葉が何回も出てくる.「用例採集」は大変重要で,たとえば,自分の用例カードを参照すると「だけ」(only)に関してこんな記事が書ける.

 「所々に農家が点在するだけであった」をOnly a few farmhouses were scattered [dotted] here and there.と訳して文法的には問題なさそうですが,普通onlyを直接名詞に付ける場合は「たくさんある中で~だけが」という使い方が一番多いと思います.たとえば,アメリカの詩人Joyce Kilmerの有名な詩"Trees"の最終行はOnly God can make a tree.(神だけが木を作ることが出来る)となっています.ですからOnly a few farmhouses...にすると,極端な話「他の家は整然と並んでいたが農家だけは点在していた」のような感じになってしまいます.このように直接onlyを付けて主語にするのではなく,こういう場合はThere were only a few farmhouses scattered [dotted] here and there.という構文にするか,さらには,There was nothing but a few farmhouses scattered [dotted] here and there.にするか,または,There was nothing but a few scattered farmhouses.とするといいです.

 こういう説明は,用例を採集して置かないと,すぐには書けない.『英和活用大辞典』(勝俣銓吉郎編の旧版)で,勝俣さんの助手的な仕事をした研究社の佐藤佐市氏の側で仕事をしたことがあるが,何か気になる表現を見つけると氏はすぐカードにメモしていた.辞書は,昔は用例採集から始まった.現在はパソコンに用例を集めて保存して置くことができるが,私は世界共通の大きさのカードに万年筆で用例を書いている.

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