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つつじ

通っていた中学校は、小さな山の斜面を削って建てられていた。
門をくぐると、ゆるやかな登り坂が見える。その先に職員室棟が立ち、そこから階段を数十段ほど登ると校舎がある。校舎の入口と職員室の2階は渡り廊下でつながり、その下はつつじの垣根が細長く続いている。

あれは、私が2年生の頃だった。放課後、教室に一人で残っていた。特に一緒に帰りたい友もなく、急いで帰る理由もなく、一斉下校の人混みも苦手だった。気だるい感じで窓際の席に座る。窓から下を見ると、職員室の入口やつつじの垣根を見渡せる。視線を上にやると紀州山脈と青空が広がり、右に向けると漁港が見える。ここは、昔は瓦と漁業で栄えた町。今は高齢化の進んだひなびた町。中学に入学して初めて知ったが、部落が多い地域らしい。週に一度、特別授業がある。
窓の外をぼんやりと眺めていると、満開のつつじの近くに彼女がいるのが見える。職員室から出てきたのだろう。靴のかかとを踏み、下を向いてゆっくりと歩いてくる。彼女は何か事情があるのか、よく職員室や保健室にいる。学校に来ない時もあるし、授業には出ないことも多い。先生たちには猫のように甘え、自由な振る舞いが許されているように見えた。おそらく彼女も、授業でよく聞く「部落の子」なんだろう。彼女は時折我が家に来た。冷蔵庫から食材を出し、慣れた手つきでごはんを作って食べた。食器は洗わなかった。一度、母親にとがめられたことがあり、断ったがそれでも家に来て食べて帰る。私はそれがあまり好きではなかった。
ふと、同じ風景を思い出した。
彼女はその時も似たような様子で職員室の前を歩いていた。彼女の斜め上にある校舎の窓際では、数名の上級生たちが喋っていた。私はちょうど中間の階段にいて、両者の様子が良く見えた。しばらくすると上級生たちが彼女に気づき、何かの言葉を投げた。彼女ははっとして上級生たちを見上げた。髪が風になびく。悲しみを通り越して凍るような瞳に見えた。職員室から指導教員が飛び出し、上を向き「おい、お前ら」と叫んだ。上級生たちは嬌声をあげて散っていった。私は<あれ、笑って、それで終わりなのか>と心の中でつぶやいた。
あれはどんな言葉だっただろうか。彼女が目の前を通る。私の心臓が鼓動を早める。あっと思った瞬間、とぐろをまいた蛇が敵に飛びかかるかのように、腹の奥からあの単語が湧き出し、つぶやいていた。彼女が気づいている様子はない。瞬間的に、腹に力を入れてもう一度その言葉を放つ。彼女が顔を上げ私を見る。前と同じような目、あきらめたような目。自分でも何と言ったのかはわからない。職員室から指導教員が出てくる。ああ、同じ光景だと思う。しかし、その後は違った。私を見上げた教員の目は吊り上がり、下におろした両腕の握りこぶしが震えるのが見える。私の頭は忙しい。<あぁ、前とは違うのか。私はとてもいけないことをしたんだな。私はあのこぶしで殴られるんだな>
長い時間が経ったように感じた。指導教員は「お前」と言って黙り、しばらくしてから「早く帰れ」と続けて背中を向けた。<あ、それだけなのか>と脱力し椅子に座ったとたん、教室の外からスリッパの音が響く。教室の入口に顔を向けると、もう一人の指導教員の姿が見える。鼻の穴が広がり、顔は紅潮している。教員は立ったまま話し出す。「お前はどんなつもりであれを言うたんや?あいつは、お前と同じクラスやったら学校へ来るって言うてたんや」
私はうなだれ、どこか他人事のようにそこにいる。<そうか、だから8クラスもあるのに、また同じクラスになったのか。それで、1時間もかけて私の家に来るのか>
私の様子にお構いなく、教員は話を続ける。「あいつは家にも居場所がないんや」
<居場所がない?>と私は思う。反応のない私の様子に呆れたのか、「いつまでも残らず、もう帰れ」と言い残し、教員は教室のドアから離れる。<終わった>と私は思う。生ぬるい風が吹く。ずるずるとカバンを持ち、教室を後にする。
むせるほどのつつじの香りと草いきれの匂いが混じる。そうだ、祖母の家に下校しているはずの弟を連れて帰らねば。洗濯物を湿気る前に取り入れて、食器を洗って、それでよかったかな。そうこうしているうちに、父か母かどちらかが帰ってくるだろう。

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