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願望を持つことに対して罪悪感があった話。

日々、意識が啓いている。
様々な気付きやシンクロが日々起きる。

最近、一番の気付きじゃないかと思ったことは、
タイトルの通り【願望を持つことに対しての罪悪感】だ。

何で願望が叶わないのか。
原因は私にどこにあるの?
と、問いかけていたら出てきた。

インナーチャイルドの傷とか、
幼少期に植え付けられた思い込みとか、
そういうもの。


私は長女で、弟は当時病弱だった。
母はよく「お金がない」と言っていた。
だから私は、
「お姉ちゃんだから」とか「お金がないから」とか「買えない」とか「どれかひとつにして」など言われていた。
(父は私が寝てから帰ってくるような日々だった)

これらの言葉が当たり前に私に向けられていたから、私は当たり前に我慢をする子どもになっていた。

そして知らず知らずのうちに、

何個も欲しがっちゃいけない。
どれか一つじゃないとダメ。

という負の学びが、

何個も欲しがる私は卑しいんだ。
様々な願望を抱く私は下品なんだ。
欲しがってごめんなさい。
卑しくてごめんなさい。

という思い込みに変化していたことに気付いた。

これに気付いたときは本当に衝撃だった。

「これ欲しいな」という想いを抱いても、「欲しい」と言えない子ども時代を過ごしてたのは覚えている。

うちはお金がないから。
弟の病院代がかかるから。
何個も欲しいと言ったら怒られるから。
・・・確かにそう思っていたことは覚えている。

でも、
【卑しい】とか【下品】なんて想いに変換されて今に至っていることは知らなかった。


「欲しい」と頭では思っていても、「欲しがりな私は卑しい」という想いが奥深くにあるのなら、無意識に願望を抱くことに対して罪悪感を感じてしまい、「欲しい」という気持ちを受付けずに跳ね返してしまう。


「どれかひとつにして」「何個もダメ」
という言葉はとても苦しかったし、ひとつに決められないものは諦めるしかなかった。
そのうち「欲しい」と言うことも無くなった。


私は願望に対して、はなっから諦めモードだったかもしれない。
だって、ひとつじゃないから。
何かが叶っても、【ひとつ叶ったのだから他は叶えちゃダメ。全く私は卑しい人間だ・・・】となっていたのかも。


そんな驚きの思い込みに気付いた後に私が行ったこと。
まずは素直に驚き、信じられない!と疑った。
でも、腑に落ちすぎて受け容れるしかなかった。

受け容れた後は、
「欲しい」「叶えたい」「願望」は私の大切な想い。
それをひとつに絞る必要はないはず。
無理かも知れないと思ったとしても、願望を抱くこと自体を恐れるのは辞めよう。
叶う、叶わないはまた別として、願望を抱くことは悪いことじゃない。
欲しがって良い。
欲しいものをたくさん見つけてみよう。

と、願望への罪悪感を認め、願望を受け容れたい自分を認め、願望を抱く自分を認めてみた。


認識が変わったあとは、願望を抱いた瞬間の何となく感じていた苦しさのような、詰まりのようなものを感じなくなったし、「よし、手に入れるぞ!」のような意欲やワクワク感が生まれるようになった。


願望を素直に抱けるようになった自分になれたのは、本当に嬉しい。


現実に現われるかどうかは置いといて、
顕在意識と潜在意識が反発/拮抗していないから、内側がとてもラク。

以前よりも楽しく想像できるのも本当に嬉しい。


私だけでなく、
我慢をすることが当たり前だった方々には、
願望に対する罪悪感があるかもしれない。


この記事がヒントや手がかりになれば幸いです。

この後、ちょったしたオリジナル?のワークを行ってみたら更に想像することの楽しさと意欲がupし、お金に対する認識が変わった。

新たな認識を定着させようと思う。

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