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坂上田村麻呂

事の起こりは、征夷大将軍の任を担い、朝廷にまつろわぬ民である蝦夷(エミシ)を征伐した坂上田村麻呂氏の墓が京都市山科区にあると知ったことにあります。
そもそも坂上田村麻呂氏は、あの有名寺院である清水寺を寄進した方で、自身が征伐した蝦夷の長である阿弖流為(アテルイ)と母礼(モレ)の助命嘆願を朝廷にされた方で、私の中での歴史上の人物人気ランキングは結構上位の方であり、まだ奈良に都があった頃から活躍されていた方で、奈良にお住まいの方だ思い込んでいましたから、今まで知らなかったのも不思議な話しなのですが、知った限りは行かなければなりません。
考えてみれば、憧れに近い存在でありながら、彼の生涯について何も調べてこなかったのですから、ファンとしては失格なのかもしれません。

さて、現地ですが住宅地の中に、坂上田村麻呂公園があり、その一部に墓所があります。
ご自身の名が冠された公園があるなど、思いもよらないことでしょう。

墓所の手前には鎖が張ってあり、近付くことは出来ませんが、まあ一本の太い鎖だけですから、近づけなくはありませんし、公園には誰もいませんでしたし、私は衝動にかられながらもそのような不埒な真似はしませんでした。

こんもりと盛り上がった古墳のような様相の墓所です。
あの下にお眠りになっていると思うと、身の引き締まるような気分でした。
奈良時代末期から平安時代初期の方ですから、もちろん直接お目に掛かったことはありません。
遷都を経験したり、その頃なら地の果てにも等しいと思われていた陸奥(みちのく)に戦に出掛けたりと、武将として活躍された
歴史書や小説の中でお目に掛かるくらいなのですが、話に聞く聖地巡礼とはこのような気分なのでしょうか。
今さらではありますが、安らかにお休みください。

因みに、阿弖流為と母礼の墓は大阪府枚方市にあるようですが、清水寺の境内に阿弖流為と母礼の碑が1994年、有志により建立されています。
私はこの碑を知りません。
ということは1994年以前に行ったということになるのですね。
機会を設けて清水寺にも行ってみましょうか。

ついでと言っては失礼ですが、醍醐寺と三宝院にも行ってきました。
三宝院は、秀吉公が醍醐の花見を催した場所ですが、この時期ですから当然のことながら桜は咲いていません。
往時の様相に思いを馳せながら、来年の桜の時期にもう一度来るのもいいかなって今は思っています。
醍醐寺は、色付く頃はさぞ見事だろうなと思えるほど青紅葉がとてもキレイでした。
ということは、秋に来て、また春に来て……ということになりそうです。
時季外れは空いていていいんですけどね。
三羽 烏

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