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京の手まり歌 南北編


てらごこ ふやとみ やなぎさかい

で始まる京の通り名歌を始めて聞いたのは、ずいぶん大人になってからだったと思います。
だから後からできたのだと勝手に思い色々調べてみましたが、いつ頃できたのかの答えは見つかりませんでした。
しかし東西編同様、西は千本通までで大内裏を避けたことから、その当時からあったかもしれないと想像されます。
実は私が知らないだけだったのですね。

寺御幸麩屋富柳堺てらごこふやとみやなぎさかい
高間東車屋町たかあいひがしくるまやちょう
烏両替室衣からすりょうがえむらごろも
新町釜座西小川しんまちかまんざにしおがわ
油醒ヶ井あぶらさめがい堀川ほりかわのみず
葭屋猪黒大宮よしやいのくろおおみや
松日暮まつひぐらし智恵光院ちえこういん
浄福千本じょうふくせんぼんさてはにしじん

この通り名歌も覚えて東西編と一緒に活用すると、場所の特定につながりやすく便利だと思います。
昨今はスマホなどがありますから、必要ないと言われればそれまでですが。

この歌では、寺町てらまち通、御幸町ごこまち通、麩屋町ふやちょう通、富小路とみのこうじ通、柳馬場やなぎのばんば通、堺町さかいまち通、高倉たかくら通、間之町あいのまち通、東洞院ひがしのとういん通、車屋町くるまやちょう通、烏丸からすま通、両替町りょうがえまち通、室町むろまち通、衣棚ころものたな通、新町しんまち通、釜座かまんざ通、西洞院にしのとういん通、小川おがわ通、油小路あぶらのこうじ通、醒ヶ井さめがい通、堀川ほりかわ通、葭屋町よしやまち通、猪熊いのくま通、黒門くろもん通、大宮おおみや通、松屋町まつやまち通、日暮ひぐらし通、智恵光院ちえこういん通、浄福寺じょうふくじ通、千本せんぼん通と、河原町通から一本西の寺町通から大内裏までの南北の通りが東から西へと順に挙げられています。


寺町通より東と千本通より西

寺町通より東は、当時鴨川(賀茂川)でした。
河原町通などは文字通り鴨川の河原だったということです。
鴨川より東にも通りはありましたが、大きな川で隔てられたために寺町通より東は歌にないのでしょう。
千本通より西は大内裏に阻まれるという理由が一番です。
歌詞の最後の「さてはにしじん」の正解は「果ては西陣」ということですが、西陣はエリアの名前で西陣通は存在しませんし、歌詞の文字数を合わせるために付け足されたオマケのようなものです。


碁盤の目だから安心

通りを碁盤の目と表現されるのが京都の特徴ですが、すべての通りが京都市内を縦断しているわけではなく、途中で名前の変わる通りもあります。
それでは、歌われている通りをそれぞれ説明しましょうか。

意外というかやっぱりというか千本通が一番長いのですね。
千本三条から南は急に細くなるのですが、さすがに平安京の朱雀大路ですね。


何故京都に行くことを上洛というか

歴史ものの映画、ドラマ、本などで京の都に向かうことを上洛するといわれます。
もともと、「洛」という文字には「都」という意味があります。
都に上るのだから上洛。
これも一つの正解かもしれません。

平安京は唐の都を真似て造られたといわれています。
当時の唐には「長安」と「洛陽」の二つの大きな都がありました。
一方平安京では、内裏の東側を左京、西側を右京としました。
そして左京は洛陽を真似て、右京は長安を真似て町を造営されました。
さらに|菅原道真≪すがわらのみちざね≫の祖父、|菅原清公≪すがわらのきよきみ≫の提唱により左京を洛陽城、右京を長安城と名付けました。
それにどんな意味があったのかは知る由もありませんが。

元々右京は左京に比べ土地が良くなく、次第に荒廃していきます。
それに引き換え左京は発展を遂げ、「左京」=「洛陽」が定着し、最終的には「都」=「洛」=「中心」という意味を持つようになったということです。
「国の中心へ行く」=「洛へのぼる」=「上洛」です。

今でも国の中心の東京へ行く人を「お上りさん」というのと同じです。
お上りさんは全国区の言葉ではないかもしれませんが……。
東京へ向かう電車を上り、東京から出ていく電車を下りというのも同じですね。


最後に

最後に手まり歌に歌われる通りと平安京の通りの対象図を創ってみました。
上と左が平安京の通りで、右と下が現在の通りです。

遥か昔に思いを馳せて、お楽しみください。
三羽 烏

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