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一、軍隊志願

尋常六年卒業の学歴よりも足りぬ浅学菲才の私。軍国時代、十四・五才の頃、航空兵になりたくて少年航空兵を志願しようとしたが、問題集を見て尋常六年の学歴ではとても無理であった。
然し軍隊より外に出世の道はない。軍隊は学歴はなくとも手柄次第で出世出来る、と安易な気持ちから十八才で一般の現役を志願。

昭和十七年一月から歩兵で北支の戦野を転戦、北支方面軍の下士官候補者教導学校を卒業すると同時に、かねてより憧れだった航空兵を志願し、一年六ヶ月の北支での歩兵勤務に別れを告げ、内地へ帰り所沢の飛行学校に入学したのである。
操縦を希望だったが学歴の関係でそれは叶わず、重爆撃機の整備と機上機関係の技術を習得した。

昭和十九年六月同校を卒業すると当時ニューギニア方面より戦力培養のためと機種改編のため浜松に引揚げて来ていた飛行第七戦隊に配属となった。
この戦隊は陸軍重爆隊の元祖で浜松飛行第七戦隊の戦時戦隊である。
日支事変当時は十九式重爆撃をもって満州の公主嶺に基地を移し、大東亜戦争に入ると仏印、インドネシアに転戦、ジャワ、スマトラ、ニューギニアと各地に於いて奮戦した戦隊であった。

私は七戦隊の三中隊に配属となった。戦隊長は高橋猛中佐、中隊長は陸士五十三期の畠尾邦雄大尉であった。
浜松に行った当時は中隊には百式重爆「呑龍」三機よりなかった。


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