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世間の目を気にしなくなったら、人として終わってしまう。

 木曜の昼、気の知れた友達と話していた。それぞれ2つのコーヒーとシュガードーナツを挟んだ二人。たまに雨が降ったり、止んだりしていたと思う。あんまりちゃんと覚えていない。

 僕がこぼす。

「僕、本当に人の目を気にしてしまうんだよな」

 彼女が、冷笑しながらこう答えた。

『いや、三浦のことなんて誰も見てないよ 気にしすぎだよ』

 その場では、「そうなのかなぁ たしかになぁ」と言ったが、これがのちのち、じんわりと効いてきた。


 僕は、正直、そうじゃないと思う。つまり、僕のことを、周りの人はガッツリ見ていると思う。これは別に、浮かれ切ったナルシズムではない。自分が格好良いから見られているとか、そういうのは断じて無い。でも、それを踏まえた上で、周りの人は絶対に僕を見ていると思う。

 根拠は無い。「今日は50人から見られてた」とか、そういう、数字の裏付けみたいなのは一切無い。僕は、そんな優れた観察眼を持っていない。でも、その上でも、周りはきっと自分を見ているはずだ。


 というのも、これはポリシーなのだ。「周りの人々は、僕をきっとしっかりと見ているだろう」と思い込むことによって、だらけた気分がシャンとするのだ。普段は弧を描く背筋も、ピンと伸びるのだ。人前で鼻をほじることも無くなるし、ボケーっとした顔を晒すことも無くなる。(見られているから、ちゃんとしなきゃ)と思うようになる。

 これは、僕以外のみんなにも教えてあげたいくらいの、「自らの高め方」である。「高める」なんて、本当は言いたくないが。「周りの人が私を見ている」と思ったら、飯屋でドギツい下ネタを話すこともきっと無くなるだろうし、電車の中でお化粧をしながら、ポケットミラーみたいなやつに鼻の下を伸ばしきっただらしない顔を映すのも、たぶん無くなるのだ。僕個人としては(別に、電車内のお化粧くらいどうでもいいだろ)とは思うけど。

 周りの人から見られていると仮定して、その上で、実際に見られていたとしても恥ずかしくない行動をすること。そう心がけるようになること。どんな時でも、ほんの少しだけ気を張って過ごすこと。どうせ生きているならば、『格好良い』とか『可愛い』とか『美人』とか、言われたいじゃないですか。


 僕が「人生の師」として仰ぐパンクロッカーは、いつかこう歌った。

ドデカいウソをつき通すなら、それは本当になる

 まったく、この気分である。嘘でもいいから、格好付けた姿をずーっと保ったまま過ごしてみると良い。多分、それは本当になるのだ。いつか、格好付けのウソつきで見栄っ張りな、仮初めの自分が染み付いて、離れなくなるのだ。

 僕は、これからもずっと、世間の目を気にして生きていこうと思います。やっぱり、なんだかんだモテたいですし。言っちゃうとちょっとダサいですけどね。


頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。