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文章表現は、0→1じゃない。

 人はよく間違える。僕も間違える。天気予報を見ることなく、傘を持たずに出かけてしまう。各駅停車と急行電車を間違える。今も、「各駅停車」と打とうとして「カクテキ停車」と打ってしまった。スマートフォン。ダメな親指。

 文章表現を、『0から1を生み出すことだ』と間違える人がいる。ことさら文章については、そう言及されやすい。しばしば、歌も絵画も料理も、そう言われることがある。が、それは間違いだ。

 リスペクトを込めた言葉について、「そんなもん間違ってるよ やめてくれ」と黒をベタ塗りするのではない。ただ単純に、「理解はするけど、それはちょっと違うのだ」と言っているだけである。


 たしかに、そう間違う気分は理解できる。例えば手書きの文章。真っ白な紙にずらっと文字が並んでいる姿は、その元の姿を想起すれば、「白の紙→文字が書かれた紙」であり「0→1」に当てはまりそうだ。PCやスマートフォンで読む文章、例えばこの文章だって、元々はまっさらだったnoteの画面に文字を打ち込んでいるわけだから、手書きと同じく「0→1」の法則?に当てはまりそうだ。

 ただ、そもそも話の筋が違う。物としての「0→1」ではない。『0から1を生み出すことだ』という言葉には、どこか、『元々無かった思想をゼロから生み出すことだ』というニュアンスが含まれている。もちろん、読み手からすればごもっともであり、知らなかった考えに触れるということは恵みであり、インプットとしての「0→1」ではあると思う。


 書き手からすれば、話は変わる。文章を書く際には、「0→1」の考えが一切通用しない。

 何かを考えるきっかけがあって、それを自らの考えや経験に当てはめ代入し、もしくは持論の隣に並べて比較し異なる点を探し、新たな気づきを得る。その新たに出会ったもの、それが1であるか2であるか、あるいは10であるか、はたまた-4であるか、そういう新しい考えに出会い、それを、元々自身が持っている考え「1」に組み合わせる。掛け算をすること。

 そうして内側に生まれ出来上がった解を、言葉で以って表現。そこでも同じく、掛け算がなされる。適さない言葉を使えば、きっとそれはマイナスの掛け算になってしまうだろうし、バッチリ適した言葉を以ってすれば、×1で思想をそのまま文字に落とし込める。表現に落とし込むことができる。気の利いた言葉を使えば多分、×10000にもできる。これはすべて、0から1を生み出している訳では決してない。

 最終的に出来上がった「文章」としての形を持った解は、-10にも1000にも、-1億にもなり得るものだ。つまりここで言いたいのは、文章表現は「0→1」の単純な形式を取るのでは決してなく、複雑に入り組んだ、掛け算の構造を持った行動なのだということである。


 頭をぐるぐる回して、わかりやすいであろう適当な表現を探し、それを浸かって過不足なく表すこと。この点、文章表現はすごく難しいし、同時に物凄く楽しいことだと思う。ずっと考えていたい。できる限り大きな数を生み出せるように、普段の日常から、何かしらに触れていたい。マイナスでもプラスでも、どちらにせよ、なるべく大きな数を生み出せるようになりたい。表現をもっともっと掘り下げたい。より良い文章表現の追求は、果てしないものだ。果てしないから困るし、果てしないからこそ面白いと思う。

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