自分で「駄文です」なんて、口が裂けても言うなよ。

一億総クリエイター時代。どんな人間も、文章を書いてそこらへ発表でき、写真を撮って世に知らしめられるようになった。最新スマートフォンのカメラ機能は、今や一眼レフカメラに勝るとも劣らないほどのクオリティになったと言う。

僕には写真がわからない。日の丸構図しか知らん。手前の物にピンを合わせてシャッターボタンを押せば、何やら奥の風景がぼやけてくれるらしい。僕はよく知らん。だからあまり大きなことを言えない。


ただ、文章については言う。心から言う。思ったことを言う。言わせてもらう、じゃない。全部、俺の意思でもって、全身全霊、力を込めて、本気で言う。

なめんなよ。なめんじゃねえよ。文章表現をなめんなよ。『駄文です。ご笑覧ください』じゃねえんだよ。なんだそれ。謙遜はそんなに美しくねえよ。

“秘する文化” に美を覚えた日本人は、どうしても、自らが生み出す物、ないし自らより発する物を悪く言ってしまいがちである。せっかくのお土産を片手に『つまらないものですが……』なんて言ってしまう。何だそれ。本当はそんなこと一片も思っていないのに。本当にそう思っているのなら、持って来なきゃ良い。途中で反省、消沈して、コンビニのゴミ箱にでもぶっ込んだら良い。話は逸れてしまいそうだが、『愚妻』の表現に呆れる。俺はそれがすごく嫌いだ。愛して結婚したんだろう、と思ってしまう。『愚息』ってお前、テメエの大事な息子だろう。

『駄文です』も同じだ。仮にそう思ってしまうのなら、そんなもんチラシの裏にでも書けば良いのだ。書いて捨てたら良い。ホワイトボードを買って、そこにキュッキュと書いたら良いのだ。後でこっそり一人で消したら良いよ。『あー、これは駄文だ〜〜』とか言って。そうしたら良い。ひたすらひっそり秘していたら良いのだ。

なぜ、素直になれない。どうして “謙遜” の蓑に隠れようとする。せっかく書いたんだったら、『めちゃくちゃ良い文章が書けました』で良いだろう。『俺の奥さん、めっちゃ良い奴なんですよ』で良いだろう。自信を持って書いたんだから。奥さんはきっと良い奴なんだから。


自信の無さや自らの弱さを謙遜の心でもって美しく仕立て上げようとするのは、まったく良くない。そんなものは、てんで美しくない。これは、「自分の文章に誇りを持てよ」というなるべく優しげなメッセージでもあり、「自信がねえならやめちまえ」とバッサリ切り裂く言葉でもある。それぐらいの覚悟を持って、すべての表現に向き合った方が良い。覚悟からのみ、自信が生まれる。並々ならぬ覚悟を持つべきだ。そうして、ゆくゆくは自信を持つべきである。

そもそも “一億総クリエイター時代” は、人を甘やかす言葉じゃないです。自分のケツを思い切り叩いて、誇りを大きく持ち、ドンと構えて生み出すべきです。覚悟を持つべきです。

謙遜に逃げない方が良いですよ。気を張るつもりも無いなら、そんなもん、最初から首を突っ込まない方が良いです。本気で書いている人間に失礼だ。『駄文です』なんて、二度と言うんじゃねえよ。どんな文章も、“笑覧” なんか到底できないです。ヘラヘラすんなよ。頑張れ。もっと頑張れ。もっと強い覚悟を持って、本気でやったら良いのに。

あなたが書く文章、別に「駄文」じゃないと思いますよ。頑張ってください。つまんねえこと言わないでください。

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。