なぜチェーン店では「ご馳走様でした」と言わないのか。

 給料日まで、あと一週間。今月も例のごとく服や酒にお金を使いすぎたため、財布の中に3,000円しか持っていない。24歳にもなって、未だお金の使い方・残し方というものを知らない。つくづくダメな奴だ。

 その日は、同居人を誘ってチェーンの牛丼屋に行った。メニューと財布の中身を交互に何度も確認し、一番安いメニュー「牛丼 並盛り ¥280」を注文することにした。隣の彼はたしか、キムチが乗ったのを頼んでいたと思う。これでは、貧富の差があまりに明らかだ。ちょっと見栄を張って僕もキムチのに変えようとしたが、1年半も一緒に住んでいれば別に格好付ける意味も無いだろうと思い、そのまま揃って席についた。

 朝から何も腹に入れていなかった僕は、目の前のシンプル過ぎる牛丼をガツガツ貪った。頬から鼻の下、エラやアゴまでをも覆うヒゲのせいで、きっと、さながら刑期を終えた犯罪者のようであったと思う。牛丼は美味しかった。

 互いに食べ終え、店を後にする。自動ドアが開いて、後ろを振り返り、「ごちそうさまでーす」と言った。それを見た同居人が、驚いたような顔で『え、なんで?』と尋ねる。質問の意味が全く意味がわからず、「なにが?」と疑問詞を投げ返した。

 彼曰く、『チェーン店に来てまで「ご馳走様でした」と言う人は滅多にいない』とのことであった。(いや、そんな訳無いでしょう)と思いながらも、「そうなんだ」とだけ言った。全然理解できない。『チェーン店に来てまで』の部分に、一切の共感も無い。彼のことは大好きだ。人柄をほとんど理解しているつもりでもいる。でも、彼のその意見に関しては、ハッキリ「NO」と言いたい。


 同じ飯である。高級店だろうが、庶民的な安い店だろうが、全部同じである。飯を出しているお店である。個人店とチェーン店の間に、どんな違いがあると言うのか。腹が減った自分に、食べ物を出してくれる。あの日はちょうど大したお金も無く、僕にとっての「牛丼 並盛り ¥280」はまさに「ご馳走」であった。たとえそれが「卵かけごはん ¥180」であっても、同じことを思っていたはずだ。

 自分のために作ってくれたご飯を頂く。「いただきます」と言う。食べ終わった後は、「ご馳走様でした」と言う。そんなのは当たり前の話だ。朝起きて家族に「おはよう」と言うのと同じである。学校に着けば、友達にも「おはよう」と言う。先生には「おはようございます」。家族も、友達も、先生も、全部同じだ。朝は「おはよう」。夜は「こんばんは」。たしかこれは、5歳の頃に習った。

 飯を食って「ご馳走様でした」と言うのなんか、当然なのだ。無言で店を出る人間の方が、滅多にいないと思う。

 たしかに、「美味かったです、ご馳走様でした」までは言わなくても良いかもしれない。牛丼は紛れもなく美味かったが。ただ、そこまでは行かないにせよ、やっぱり「ご馳走様でした」ぐらいは言いたいところである。炊いてある米に、朝方仕込んだ具をぺろっと乗っけただけの料理であろうと、「ご馳走」は「ご馳走」だ。飯は飯であり、それ以上も以下も無い。

 僕は、どこの店で飯を食おうが、帰る際には「ご馳走様でした」と言える人間でありたいと思う。280円の牛丼にも、1,500円のパスタにも、8,000円の懐石料理にも、等しくありがたみを持てる人間でありたい。相手を選ぶなんて、もってのほかである。ましてや、ただでさえ金の無いこんな人間が何を偉そうに、という話だ。

頂いたお金で、酒と本を買いに行きます。ありがとうございます。