「好き」が尊いなら、「嫌い」も等しく尊いはずだ。
この世は幾分、「好き」が多すぎる。『~~、すごい好き!』、『めちゃくちゃ好きだなぁ、これ!』など。もちろんそれは尊いことであり、誰も嫌な気分にせず、むしろきっと幸せにしてくれる。ただ、最近、それに対して少しの疑問を感じている。
なるべく「好き」に囲まれて生きていきたいと思う。好きなものを食べ、好きなものを飲み、好きな場所に住み、好きな服を着る。好きな人と一緒にいられる時間はかけがえのないものであり、できれば失いたくない。
「好き」が多いのは至極良いことだが、近年、SNSを通じて『"好き" しか発せない雰囲気』が感じ取れるのである。同調圧力的な気概すら感じる。タイムラインは誰かの『好き』だらけ。僕はそれに嫌気がさす。正直、「うるせえよ」とすら思っている。「もっと嫌いなもの、あんだろ」と思っている。
なるべく好きなことだけを発信しよう、という姿勢が横行。好きなことしか言えなくなってしまった。こんな世の中では、「嫌い」の感情はひっそり押し殺し、自分の中にとどめてしまうよりほか無い。内側に潜ませ、重い蓋をし、なるべくそれを外に出さないよう鍵をかけてしまうこと。非常にもったいない。言論の自由がゆるやかに殺されていくのを観ているみたいだ。
ただ単純に「嫌い!とりあえず無理!」とハンコを押しただけの「嫌い」は、まったく尊いなんて思わない。そんなものはただのヘイトスピーチであり、阻害・弾圧されて然るべきだと思う。それを自由の範疇だとは思わない。が、ふさわしくもっともな理由を伴った「嫌い」については、「好き」同様に尊いものだとされるべきだ。ちゃんとした理由があるんだから。そして同時に、「その "嫌い" を発すること」も認められるべきだ。尊く思われるべきだ。仮説があり、それを実証し、確信し、自らの信条として掲げた「嫌い」は、正当な評価を得られるべきなのだ。
それに対しても、『"嫌い" は全部ダメだよな!』なんて、もっとも正義らしく雄弁なフリをし胸を張って否定するのは、絶対に間違っている。『"嫌い" は全部ダメ! "好き" だけが正義!』なんて、言ってしまえばヘイトスピーチと何も変わらないじゃないか。
その「嫌い」に胸を張るべきだ。もっともっと、好きなものも嫌いなものも、何でも言ってしまうべきだ。そこに自らが考えるもっともらしい理由・根拠・背景があるなら。もっと自由に、言いたいことを言うべきだ。ひいては、もっともっと考えて、それがポジティブであれネガティブであれ、自分の信条を持とうとすべきだ。これからは、自らのあり方をほんの少し考え直してみようと思う。「好き」が尊いなら、「嫌い」も等しく尊いはずだ。間違いなく。