「書いてりゃ上手くなる」は嘘だが、一度だけ信じてみよう。

文筆家。ライター。エッセイスト。小説家。「文章を書く」ということを生業にする人間、自らについて、ひいてはそもそも「文章を書く」ということ自体について、どう語って良いか分からん。知れたもんじゃない。『紡ぎ人』なんていう表し方を目にした際は、なぜだか身体中が無性にむず痒くなった。面白がることがどうしてもできない。

「文章を書く」という行為は、千差万別あれど皆に許される行為であった。その輪郭らしいものは、まさに “十人十色” であって、その発散行為が「小説」であれ、「ラブレター」であれ、「歌詞」であれ「エッセイ」であれ、何でも良かった。すべてがまるっと許されて、そのすべてが「文章」であることを誰からも咎められない。

『量は質を凌駕する』という言葉を聞いた。「このクソ野郎がヨォ」と思った。口にした。そんな訳あるかい。たまったもんじゃねえ。書いてりゃ上手くなる、そんな淡い夢物語を許せるのかいテメエは、と憤怒し中指立てて粋がった。が、俺の方こそ間違いでした。

プロというのは、常に「80点」を叩き出せる人間だと言うのだそうだ。どうしても気持ち悪いが、事実だそうだ。80点を日常化するためには、そうでない現状の50点、60点を毎日毎日少しずつ引き上げていくしか無いのだ、と。もれなく努力を続ければ、いつのまにか80点を取れる自分がひょっこり出来上がるのだ、と。

俺は悔しかった。50点やら60点の文章を人様に読んでいただき、ましてやそれで金なんか貰っちゃったりなんかしている輩を見ているのが辛かった。続けることだけが正義なのかと疑い、嫉み、書くことから目を背けてきた。何も書きたくねえと思った。うるせえよ、お前は血反吐にまみれて文章書いたことあんのかよ、と嫌った。悔しかった。

『紡ぎ人』を認められなかったのは、そういう話なんだろうな。しみったれた「アマチュア」をなるべく蹴落としたかったんだろうな。意地のきったねえ顔で。俺はクソつまんねえ人間だった。結果逃げてるんだもん。文章を書くことでやっと自我を保つことができていたのに、それから逃げた。人のことばっかり気にして。俺は俺で良かったのに。

量は質を凌駕しない。続けることだけが光明ではない。書いてりゃ上手くなる、そんなわけない。下手くそな文章を認めることは正直無理だ。だったらもういっそ、俺が常に素晴らしい文章を書きまくって見せつけてやろうと思う。「これが100点だろうよ」とドッカリ提示しちゃおう。

それが毎日続けば、日常的に継続できるのであれば、もう誰に文句もねえ。人のことを気にするのは止めにした。俺が俺として、俺にとっての100点を常にやろう。今日から俺は、毎日文章を書いていこうと思います。中指立てる癖は直らなさそうだが、そのままでもいい。今に見といてくださいませ。

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