あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について(2)政治プロパガンダから自立していない作品は作品とは言えない

あいちトリエンナーレにおける「表現の不自由展・その後」について、あと二つ(あと一つ、の予定でしたが一応一つ増やしました)考えたことを書きます。


(2)政治プロパガンダから自立していない作品は作品とは言えない
くどいようですが、私はこの展示会を見てはいません。ネットでいくつかの画像は観ましたが、作品の中には現場でその大きさや立体感に触れないと判断しにくいものもありますので、そこは割り引いて考えないといけないでしょう。ただその上で率直な感想を述べれば、「少女像」やほかの話題になっているいくつかの作品は、作品として自立したものとは感じられませんでした。
これらは皆、一定の政治性や、政治的な言語。また、何らかの事例に寄りかからなければ成り立たないものです。ここでも自分に置き換えて説明しますと、仮に、私が北朝鮮や中国の独裁体制を批判する作品を作ろうとして、マルクス、毛沢東、金日成らの肖像画や著作を侮辱したり焼いたりする展示をしたとしましょう。これはどんなにうまくやっても反共プロパガンダになるだけで、作品としては自立したものにはならず、仮に喜んでくれる人がいたとしたら同じ政治的立場の人だけです。公共の施設に持ち込んでもボツでしょう。
また、思想は相いれなくても、共産主義の理想を信じ、その為に殉じた人たちを侮辱するような作品を作ったとしましょう。これもまた、人間が理想を持つこと、それ自体を否定する傲慢で、歴史を結果から見て勝ち誇る愚か者の作品とみなされてボツでしょうね。
こういう作品は、左右いずれであれ、政治的なスローガンを作品に移し替えただけのプロパガンダなんです。それなら、デモの中とか、政治運動の機関誌とか、自分のフェースブックでやればいいことです。私がデモの中で叫ぶアジテーションをそのまま文章にして『正論』や『Hanada』にもっていったって誰も相手にしません。ちゃんと一般の人に伝わるように書いてください、と言われて終わりですよ。
もし本当に私が普遍的な、公共施設で堂々と展示できる作品を作ろうと思ったら、「独裁政権打倒」と言った言葉も、マルクスや毛沢東や金日成の肖像画も変に揶揄的、侮辱的に使うこともなく、それでいて、共産主義の悲劇と恐怖、純粋な人ほど犠牲になった哀しい歴史を、政治に興味のない人にも、あるいは、共産主義にシンパシーを持つ人に対してさえも一定程度訴えるような作品を目指さなくちゃいけないはずです。
確かに、それを実現するのは、並大抵の努力や才能じゃないですよ。しかし、何かを表現しようという人はそういう志どっかであるはずだし、だからこそ、作品は、作家の政治的立場を越えて人々を動かすわけじゃないですか。津田氏が芸術監督なら、その視点に立って作品を選考することが何より必要だったはずです。もちろん、津田氏が今回の展示がそのような作品ばかりだった、と思われるのなら、それは私とは作品への評価が違うとしか言いようがありませんが。
私は、ギタリストのジミ・ヘンドリックスが、ベトナム戦争のさなかの1969年に演奏したアメリカ国歌『星条旗よ永遠なれ』を、今も多くのロックファン同様、永遠の名演奏だと思っています。ヘンドリックスがどんな政治的な意見を持っていたかは知らない。しかし彼は、まるでベトナムへの空爆を思わせるような爆音をかき鳴らし、「星条旗よ永遠なれ」を泣き叫ぶ悲鳴のように響かせた。そこには、60年代アメリカの混迷が見事に刻印されていた。もちろん、この演奏は禁止になどならずに、今もCDで、映像で人々に衝撃を与え続けています。
明日はもう一点、知識人の傲慢さ、という点に触れて、この件に関する投稿は終わりとさせていただきます

#あいちトリエンナーレ2019 #表現の不自由展・その後



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