書評『アジャ・リンポチェ回想録』 著者 アジャ・リンポチェ 発行 集広舎

本書は、1950年にチベット東北部オロンノールの、モンゴル遊牧民の家に生まれ、2歳でチベット仏教ゲルク派創始者「ツォンカパ大師の父」の転生者と認定された、アジャ・リンポチェの回想録である。
1998年にアメリカに亡命するまで、アジャ・リンポチェの約50年間の日々は、まさにそのままチベット現代史の証言である。
牧歌的な少年時代にはじまり、神秘的な転生認定、そして、直ちに始まった中国軍による僧侶への激しい弾圧とチベット全土の侵略。さらに、大躍進時代の飢餓、文化大革命時代の徹底的な弾圧。しかし、いかなる悲劇的な事例を語る時も、著者の筆致は常に冷静さを失わなず、ところどころにユーモアすら感じさせる。
同時に,文化大革命のときに、ひどい迫害と強制労働の中亡くなっていく僧侶たちが、決して信仰を失わず、中国人たちに対しても恨みや憎しみを抱かずに静かに世を去っていく姿は、チベット人の精神がいかなる暴力にも屈することがなかった姿を美しく記している。
本書で引用される僧侶の言葉には、その精神が純粋な結晶のように現れている。「現代のような末法の時代には、私たちは仏法を学ぶことはできないが、仏法を修行する機会はたくさんある」「私は誰かを助けることはできないが、人を傷つけたりはしない。」暴力と憎悪に基づく共産党支配に対し、彼らが守り抜こうとしたものは、あくまで仏教徒としての信仰だった。
 そして、彼らチベット僧の最大の代弁者だったのが、中国支配下におけるパンチェン・ラマの存在だった。突然の謎めいた死に至るまで、パンチェン・ラマがいかなる場合にも堂々とチベットの立場を貫き、仏教を守り抜こうとした姿勢がこれほどリアルに描かれた書は、少なくとも私は初めて読んだ。
中国政府のチベット侵略後、「7万言上書」を書いて投獄され、長い獄中生活を送ったパンチェン・ラマだが、文化大革命が一定の終結を得て鄧小平時代が訪れ、解放されて以後の不屈のチベットを守るための言動には目を見張らされる。僧侶としては屈辱的な結婚を強いられ、言論も活動も制限されても、彼は再逮捕や弾圧を恐れることなく、チベット仏教を守り、チベット人の蜂起の現実を人々に知らしめようと努力する。
そして、チベット仏教委員会という名のもとに、自ら、チベットの僧侶や寺院を組織化して、中国支配の中でも確固たる宗教施設を作り上げようとしていた。パンチェン・ラマ(本書ではパンチェン大師と書かれている)がチベットの現状をどうとらえていたか、仏教の保護を通じてチベットの民族自決権をどう確立しようとしていたかは、彼の最後の講話からも明らかである。
「チベット人民は(現在のチベットの状況を:三浦注)どう思っているのか、一つ例を挙げましょう。仏教はチベット人民にとって至高のもので、命よりも尊いのです。私たちがそれを全部壊して、どうしてチベット人民を喜ばれることができるでしょう。」
「一部の同志は理論上のものをチベットの土地に押し付け、無理やりに自分の物差しでチベットを判断していますが、それでは通用しません。」
「宗教、民族、統一戦線、農牧畜民の一連の問題解決のために本当に政策を実行しなければならない。」
1989年1月に行われたこの講話の直後、パンチェン・ラマは入寂している。著者が亡命を決意したのは、中国がダライ・ラマ法王が認定したパンチェン・ラマに対抗して、偽パンチェン・ラマを立て、その教育係に任命されそうになったことである。
「もしもダライ・ラマが認定したパンチェン・ラマ11世を受け入れれば、チベット人と中国政府との間の対立はある程度緩和しただろう。中国政府にとって、願ってもない機会だった」しかし、仏教信仰を迷信とみなし、政治利用しか考えない中国政府にそのような発想は皆無だった。
「この土地に残っている限り、一つの力に強制される。そしてこの力は千変万化で、ある時は銃で、ある時は飴や金銭で私たちに襲い掛かる。だがいくら変化してもその本質は変わらない。それは彼らが永遠に宗教を敵視し続けるということだ。」一人の仏教徒として生き抜いた著者にとって、それは最後まで譲れない価値観だった。
いま日本に生きている私たちは、この著者ほどの精神性も、また守るべき何ものかも持っているだろうか。単に中国政府の弾圧に対する怒りのみならず、私たち自身のあり方も考えさせるような一冊である。


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