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迫るシロクマの恐怖

2015年8月1日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 北極圏に位置するスバールバル諸島では、シロクマとの遭遇は観光の最大の魅力であり、最大の脅威でもある。シロクマは北極圏では捕食動物として頂点に君臨する。その体重は700キロにもなり、時速50キロ以上で走り、時には百数十キロも冷たい北極海で泳ぐことができる。

 シロクマの事故はスバールバルでも年2、3件ある。そのほとんどはシロクマ対策を十分とらずに起きる事故で、シロクマにとっても人にとっても悲惨な結末となる。クルーズ3日目、船からゾディアック(エンジン付きゴムボート)に乗り換え、スピッツベルゲン島の南西の小さな入り江に立ち寄った。
 島を案内してくれるのは経験も知識も豊富なガイド5人、行動範囲によって3つのグループに分かれる。僕は小高い山を目指すグループに入り、父(雄一郎)は沿岸を散策するグループ、母と兄は主にゾディアックに乗るグループに分かれた。

 ガイドは豊富な知識を持ち、スバールバル特有の植生や付近にある猟師小屋について説明してくれる。しばらくするとゾディアックに乗っている班から「シロクマがそっちに向かっている」との無線を受ける。ガイド達の顔にも緊張が走った。そして「これから緊急避難をする」といってゾディアックの方に向かう。
 その途中、湿地帯で僕の足が何度もとられた。「シロクマが迫っているのに足が抜けない」。まるで悪夢のようだ。僕はなりふり構わず長靴を脱ぎ、それを手に持って裸足で湿地帯を駆け抜けた。 
 浜辺では既にツアー客が次々とゾディアックに乗り込んでいた。ガイドのリーダのアダムと僕たちはそれらのゾディアックを浜辺から押し出す。
 最後のゾディアックには父も乗っていたが、それが浜辺近くの浅瀬に引っかかる。慌てて持ち上げ、船を回す。僕は迫り来るシロクマの恐怖と戦うのに必死だった。半分パニックになりかけている僕をアダムは「落ち着いて行動しよう」と穏やかな声でなだめた。どうにか抜け出し後ろを振り返るとシロクマは100㍍も離れていない場所で僕たちを見ていた。

 その夜、アダムは「皆さんがあの状況で落ち着いて行動してくれたおかげで人も熊も傷つくことがなかった」と話した。あの状況でお客だけではなく、シロクマにも気遣いを見せるガイドを尊敬したが、それにしても怖かった。

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