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渡航前の健康対策

2010年12月4日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 先月、東京医科大学病院に新設された渡航者医療センターの開設記念講演が行われた。
 このセンターは海外渡航者にそれぞれの滞在先で遭遇する可能性のある感染症や高山病など特異な健康リスクについて説明し、健康指導、ワクチンの接種や現地対策など総合的な指導を行う窓口だ。

 海外ではトラベルクリニックとして普及しており、西ヨーロッパでは53%、米国では36%、豪州では31%の渡航者が旅行前に訪れるが、日本ではまだなじみがなく、その利用はわずか2%だという。
 現在、年間1500万人以上の日本人渡航者がいて、その中で何らかの健康問題を生じた人は5割以上、さらに病気に罹患した人は20~30%というからこの問題は無視できない。高山や高所でのトラブルも多く、僕らが行っている低酸素トレーニングが対処法として有効と考えられ、センターの活動の一環として取り入れられることとなった。

 講演で僕は「冒険とリスク」というテーマで三浦雄一郎と共に取り組んだ75歳のエベレスト遠征のエピソードをお話しした。
 70歳でエベレスト登頂に成功した父は、さらに5年後の75歳での登頂を目標とした。しかし活動を始めた直後、身体を酷使したのか心房細動という不整脈が見つかった。心房細動は心房全体が細かく震え、十分な収縮を得られなくなってしまう。そのため心臓内にたまった血液が凝固しやすくなる。脳梗塞を起こす原因の3割が心房細動によるものといわれる。
 高所では低酸素により脱水が進み血液が固まりやすくなる。当時、心房細動を持つ人のエベレスト登頂という記録はなかったが、現代の医学をもってすれば乗り越えることが可能ではないかと、登山や冒険に理解のある医師らを中心としたチームが結成された。そして3年後、手術も含めた様々な医療対処、低酸素室の使用や4度にわたるヒマラヤ遠征を重ね、リスクと向き合いながら2008年の登頂に成功した。同時にこの準備が8000㍍地点で高所性脳浮腫に陥った僕の命も救ってくれたのだ。

 冒険にリスクはつきものだが、コントロール可能な健康問題や現地で起こりうる健康リスクに対応を怠るのは冒険とは言えない。渡航者医療センターは海外へ旅する人たちの大切な窓口となり、その先にある新たな環境への有能なガイドとなるだろう。

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