見出し画像

スキークロスは情報戦

2018年3月3日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 平昌五輪が閉幕した。解説者として現地にいた僕の最後の仕事が女子スキークロスであった。
 スキークロスは通常4人同時にスタートして様々な障害物を乗り越えながらゴールを目指し、うち上位2名が次のラウンドへ勝ち進む。日本ではまだなじみの薄いこのフリースタイルスキー種目に、日本勢として唯一出場したのが梅原玲奈選手。彼女はもともと日本屈指のアルペン選手であった。ターンに定評があり、過去に回転や大回転で全日本を制している。
 その梅原選手が雪上の格闘技ともいわれるスキークロスを始めたのは、1人ずつ滑るアルペンと違って「自分だけに集中できない」ところに引かれたからだという。「触れるほど近くに相手がいるのは興奮するし、対応力が問われる」。そこが面白いのだと。

 かつて日本には滝沢宏臣という世界有数のスキークロス選手がいた。2002年にスキークロスがワールドカップ(W杯)種目になると、彼は初代総合王者になった。他にも河野健児選手や福島のり子選手がW杯を転戦していた。しかし、日本チームの活動は4年前のソチ五輪を最後にいったん途絶えることになる。

 スキークロスは個人種目でありながらチーム戦の性格が強い。コース内には大小様々なキッカー(ジャンプ台)、ウェーブ(凹凸)、バンクや逆バンクなどの障害物が20個近くある。これらを制するには情報と戦略が必要だが、公式練習で選手が滑る本数には限りがある。こうなると、参加人数が多くてサポート体制が充実したチームが優位となる。
 複数の選手がいれば、限られた本数でも情報を共有できる。ビデオクルーを数ヶ所に配置すれば、細かい映像分析が可能になる。こうした情報がコンマ1秒を争うレースでは生命線となるのである。

 そんなチーム戦の中、梅原選手は、出場権を逃したソチ大会から今に至るまで1人で戦い抜き、平昌の切符をつかんだ。五輪という夢を再び紡いだ彼女のもとに、先人たちも集まった。河野氏はコーチとして、滝沢、福島の両氏は国内の事前合宿で彼女をサポート。屈指のサービスマン、金谷浩司氏がスキー整備を担当、中村克氏をチーフコーチに迎えて体制が整った。
 強豪と同組になった梅原選手の平昌五輪は、残念ながら1回戦敗退で終わった。だが休む間もなく彼女は次のW杯があるロシアへと旅立った。五輪が終わりではなく、戦いは続くのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?