見出し画像

登高スピードを計る時計

2014年3月29日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 昨年の今頃はエベレスト出発前、荷造りと父、三浦雄一郎の最終的な体力テストや医療ミーティングで慌ただしく過ごしていた。
 アタック前の1ヵ月半前、父は心臓の手術を受けていた。そのため父の心臓がどれくらい機能するのか、そして実際にそれは登山を行うのに十分なのかということが大きな焦点であった。

 僕の仕事は心拍数を見ながら父の登るペースを抑えること。オーバーペースだと心拍数が過度に上がり、父の持病の心房頻拍が出やすくなる。
 登山において登高スピードというのは運動負荷そのもの。たての距離は平地の距離に換算すると30倍ものエネルギー消費量になることが鹿屋体育大の山本正嘉教授らの研究によって分っている。つまり標高300㍍上がるときに必要なエネルギーは平地を9㌔歩くのに匹敵するのだ。
 そのためわずかな登高スピードの違いが運動負荷や心臓の負担に直接つながる。僕はいつも心拍数、高度計、時間とにらめっこしながら登高スピードを計り、目的地までの到着時間を計算していた。
 しかし、高度が上がるにつれ頭が回らなくなり計り始めた時間や高度を忘れてしまうことが多い。その度に無駄な知力、体力が奪われるため「登高スピードを計れる時計があれば」と思ったものだ。

 日本に帰ってから早速、以前から付き合いのある時計メーカーのセイコーに相談に乗ってもらった。登山用の時計は少なからずあるが、登高スピードに関して分りやすい機能を持つものはない。
 運動生理学の観点から時計に標高の他、登高・下山スピード、積算高度のデータがあれば、登山計画や計画の変更、消費カロリー計算、そして間接的に必要な水分の量まで計算することができる。共同開発を始めて今年3月、それがようやく実現した。

 必要な情報が手元にあり、すぐわかるというのは大きな武器だ。僕は普段、低酸素室で高所登山の専門的なアドバイスを行っているが、標高が上がることによって「ゆっくりとしたペース」という漠然としたアドバイスではなく、低酸素室の結果を基に正確なペース配分を指示する事もできるようになる。
 登高スピードとは、車に例えるとスピードメーターだ。車では欠かせないように登高スピードを把握することが安全な登山の重要な指標になるだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?