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山は最高のホスピタル

2018年10月13日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 来年のアコンカグア登山に向けて、ただいま父の三浦雄一郎とともに富士山の佐藤小屋に山ごもりをしている。僕は富士山を身近にあるヒマラヤだと思っている。標高4000㍍近くで高所順化ができる山は、国内にはほかにない。

 こういう場所に父が来ると、最初の2~3日は必ず持病の不整脈の症状が出て、血圧も高くなる。酸素が少なくなると、体が危険を察知して交感神経が過剰に働き、心臓の脈動が不安定になるのだ。
 だが低酸素状態が数日続くと、体は適応をはじめる。低酸素誘導因子が働き、酸素を運ぶ赤血球を増やしていく。一度収縮した肺の毛細血管が拡張して、酸化作用にも強くなる。高所滞在をはじめた数日後には、自律神経のバランスが元どおりになって、血圧も落ちつく。こうした作用は高所を下りて普通の生活に戻った後もしばらくつづく。

 山が人体におよぼす不思議な影響はほかにもある。エベレストに登るような長期遠征になると、僕は遠征のはじめに必ずと言っていいほどおなかを壊す。
 エベレストのあるクンブ地方の下痢はクンブ下痢とも呼ばれ、現地の衛生状態や油、硬水に慣れていないと発症するとされる。しかし最初の下痢がおさまれば、おなかの調子はうんと落ちついて過ごしやすくなる。僕が思うに、これは腸が現地に慣れるからなのだろう。胃腸が強くなると力もわいてくる。

 足、膝、腰に痛みがあっても、山道を数日歩くと驚くほど回復する。僕たちがふだん歩いたり走ったりすることの多い平地のコンクリートでは、こうした部位が炎症を起こすことがある。同じ筋肉や関節に負担をかける癖のある人は特に。
 しかし、山道のように不均一に荒れた道を歩くと、足、膝、腰は常に微調整を強いられる。普段は固まった腱(けん)や筋肉が伸ばされ、負担が体のあちこちに満遍なく分散するからだと僕は思っている。そもそも人の足、膝、腰は進化の必要上、不均一の場所を歩くようにできているのだ。

 登山は理想的な有酸素運動である。山を登れば心肺機能は向上し、血管はしなやかになる。そしてまた、下山の運動によって速筋の維持力が鍛えられ、糖質代謝が促され、血糖値をコントロールしやすくなる。「山は最高のホスピタル」と語る父は、山ごもりを通じて体力と健康を取り戻している。

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