山でしか鍛えられない
2012年8月18日日経新聞夕刊に掲載されたものです。
メダルラッシュのロンドン五輪が開幕したとき、父、雄一郎と僕は剣岳の剣沢雪渓の麓にある真砂沢小屋にいた。来年のエベレスト攻略に必要なクライミング技術と体力を改めて磨きなおす為である。
立山、剣岳周辺は父がまだ20代の頃、重い荷物を担ぎひたすらボッカ(強力)として体を鍛えた場所だ。その後、父は世界の山々にスキーを担いで登り滑ったのだが、それを支えた体力は立山で作られた。いわば原点ともいえる場所だ。
富山県には世界的に見ても厳しい山ばかりが連なる。著名な登山家や探検家が多いのも、立山、剣岳があるからだといわれている。その中でも剣岳はその名の通り、剣が空を突き刺すほど鋭く急峻な山でどのルートも厳しい。谷間には夏の盛りでも雪渓が残り、至る場所に高度なクライミング技術が必要とされる所がある。
適当な岸壁をみつけ、本番さながらの装備を身につけてトレーニングを行った。そして最後は源次郎尾根に挑んだ。険しい崖、ヤブ、木の間をくぐり、手足を使い自らを垂直に持ち上げる箇所ばかりだ。
往復で13時間に及ぶ岩登り、木登り、雪渓歩きとバリエーションにとんだ実践的トレーニングだった。ハードな行程での不整脈を患った父の80歳の心拍数と心電図データは医学上貴重なものとなる。
トレーニングには3大法則というものがあり、その中の一つに「特異性の原理」がある。これはトレーニングした分野にのみ、その効果が現れるというものだ。今回の五輪でメダルをとった選手も、それぞれの種目に特化したトレーニングを続けたからこそ、アスリートとして素晴らしいパフォーマンスを発揮することができたのだ。
登山は極めて特異性が強い運動である。長時間の有酸素運動能力が強さにつながると考えられるが、有酸素脳力の高いマラソン選手が重い荷物を担いで荒れた山道を歩いても、その能力が発揮できるとはかぎらない。同じく長時間、自転車のトレーニングを行っても山くだりの筋肉は鍛えられないし、水泳を行っても歩く体力にはつながらない。
父が50年前、ボッカとして行っていたことが実は山では最も実践的なトレーニングであった。近代スポーツ生理学がいくら進んでも、本当の意味で山の体力は山でしか鍛えることが出来ないのである。
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