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八甲田山事故 重い教訓

2016年3月19日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 先日、八甲田山(1584㍍)で父と次のチョ・オユー(8201㍍)挑戦に向けてトレーニングを行ってきた。八甲田山に向かう途中、青森市幸畑にある雪中行軍遭難資料館に立ち寄った。 
 1900年代初期、ロシアの脅威が高まっていた。日本陸軍はロシア兵が青森に上陸することを想定し、八甲田山系内で寒冷地訓練を計画した。1902年1月23日、日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊は青森市街から田代親湯を目指し1泊、翌日青森市内に戻る雪中訓練を開始した。しかし、訓練の途中、記録的な寒波に見舞われ、参加者210人の内199人が死亡、世界的に見ても最大級の遭難事故となった。

 資料館には当時の時代背景、気象条件、装備、第5連隊の隊員の情報などの貴重な資料が展示されていた。田代親湯までは約20㌔。冬期以外ではそれほどの距離ではない。また目的地が温泉だったこともあり、隊員の意識はそれほど高くなかったという。 
 しかし、彼らが遭遇した悪天候は、当時日本各地で観測史上最も低い気温を記録した大型の冬型気圧配置によるものだった。彼らは吹雪のため田代親湯までの道を見失い、帰路までも見失ってしまった。
 冬山の認識の甘さが多くの命を奪った。地元のガイドを雇うことはせず、装備は普通の軍服の上に薄い毛糸やネル生地のオーバーコートを重ね着し、軍手と軍靴という軽装であった。展示されているオーバーに袖を通してみたが、その薄さに驚いた。
 行軍開始から4日たった後、後藤房之介伍長が発見される。それまでの間、隊は猛吹雪の中、極度の低温、疲労、栄養不足(持って行った食料はほとんど食べられなかった)のため隊はほぼ壊滅状態。冬山の恐ろしさを物語るこの大遭難、その原因として認識不足、情報不足、装備不足等と多くの専門家が分析した。この事故をきっかけに、当時の日本陸軍から現在の自衛隊に至るまでの間、冬山の心構え、指揮系統、装備が一新されることとなる。

 興味深いのは、事故後、ノルウェーの国王ホーコン7世が雪中行軍遭難の見舞いとしてスキー2台を明治天皇に献上した。その後、軍のスキー導入機運が高まり、1911年、日本のスキー伝道師、オーストリアのレルヒ少佐が来日したときには組織的なスキー普及への下地ができていた。日本のスキー史とも深く関わる大遭難だった。

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