見出し画像

下山決断 父との対話

2019年1月26日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 1月20日の朝食後、大城和恵ドクターが僕を呼び止めた。「夜中のお父さんの息づかいを聞いた?」
 ここは標高6000㍍のプラサ・コレラキャンプ。アコンカグア遠征隊の中で僕と先生だけが、父の三浦雄一郎と同じテントに寝泊りしていた。86歳の父の体と酸素の吸入具合をチェックするためで、夜間、尿瓶に排尿する父の激しい呼吸を僕も耳にしていた。

 僕たちはヘリコプター飛行を経てここに来た。本来は高所で上り下りして体を順化させるのが手順だが、父はそれだけで体力を使い切る深刻な恐れがあった。だがヘリを使ったことで父の体は高所に順応できず、補助酸素を使っても、ふとしたことで息が乱れた。 
 「いつ心配停止になってもおかしくない」。不整脈などを抱えた父の心臓を誰よりも知る大城先生は宣言した。「ここでドクターストップとします」
 すぐに登攀リーダーの倉岡裕之さんと下山を検討した。登山ルートと反対側のキャンプ地、ニド・デ・コンドレスに下りることで話がつくと、僕たちは父の説得にかかった。これが問題だった。

 寝耳に水だったのだろう。父は驚きながらも「大丈夫、問題ない」と繰り返すばかり。僕と先生の言葉に取りあわない。「僕は山を下ります。お父さん一人で山に行ってください」と意を決して僕が言うと、父は口をつぐみ、そのまま目をつむってしまった。
 僕は涙を浮かべ、さらに言い募る。「お父さんはあきらめない。ブラス思考でおおらかで、いつもどうにかなると思っている。だけどお父さんの肉体はそうではないんだよ。気持ちだけ山頂に行って体が死んでしまったら、残された僕たちはどうなるの?その体を引きずって下ろす僕たちの気持ちはどうなるの?」 
 うーん、とうなった父は思いがけないことを言った。「(道は)2つあると思う。このまま自分が登山を続けるか、豪太と大城先生だけで登頂するかだ」
 結局、父は説得を受けいれた。大城先生は「雄一郎先生が下りるなら、私は職務として付き添います」と言い、登頂を辞退した。隊はその日のうちにニドまで下り、父は先生と一緒にヘリで運ばれた。

 翌日、僕は迷った末に「豪太は登れ」という父の言葉に従って、倉岡さんらとアコンカグアを登頂した。標高差は1500㍍。父の思いを山頂に届ける旅は壮絶な体験となった。頂上直下、酸欠状態で倒れた僕は倉岡さんが手にした酸素ボンベに命を救われたのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?