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ピアニストの脳と筋肉(写真提供:    Tomoko Hidaki)

2018年10月6日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 ピアニストの市川高嶺さんのリサイタルを東京文化会館で鑑賞したのは8月のことである。彼女はプロのピアニストでありながら大のスキー好きで、僕たちのスキーキャンプのお手伝いも良くしてくれる。
 これまでにも、彼女のリサイタルには何度か行ったことがあるが、とりわけ今回、市川さん自身が特別な思いを抱いている東京文化会館での演奏に僕も居合わせることができたのは、光栄なことだった。ここでリサイタルするまでには厳しい審査があり、ピアニストとして真価を問われるのだ。そのため市川さんは開催が決まった1年前から好きなスキーを控え、生活の大部分をこのリサイタルの準備に費やした。

 今回彼女が選んだのは、バッハ、ドビュッシー、ベートーベンなどから6曲、張り詰めた空気に響くピアノの音は伸びやかで、まるで雪上でスキーを自由に滑らせているようであった。
 演奏後、彼女に挨拶する機会を得た。その時に驚いたのが彼女の腕の筋肉である。細身の腕は無駄な筋肉が削ぎ落とされ、シェイプアップした一流のアスリートさながらの腕であった。
 クラシックピアノは芸術である。音符は前世紀に完成していて、プロのピアニストは作品の背景を理解し、作者の思いや自身の感情を乗せることで演奏を芸術へと昇華させる。僕が注目するのはそれを可能にする高い技術と運動能力である。「ピアニストの脳を科学する」の著者、古屋晋一さんによると、1日平均4時間の練習を1年続けると、手の移動距離は490㌔にも達するという。クラシックに数千回の打鍵が必要な曲も多くある。これにはどんな体力が必要なのか。

 スポーツ選手が反復練習をすると、筋肉や脳、運動神経は以前とは異なるものとなる。それと同じことはピアニストの身にも起きるという。脳の働きは効率化され、複雑きわまる指の動きに対しても、神経細胞の動員を少なく済むように訓練されている。この余裕が芸能性や自己表現の追及への脳を向かわせる。
 またプロのピアニストは「脱力」を意識するという。正確な打鍵に必要なもの以外は筋肉を極力使わず、重力や体幹を効果的に利用する。リサイタルで市川さんが質の高い演奏を90分以上も続けることはできるのはこのためだ。運動の効率化はスポーツ選手の集大成。プロのピアニストは、芸術家でありながら鍛え上げられたアスリートでもあるのだ。

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