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カントリーリスクと父

2018年7月28日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 チベットの奥地にある世界第6位の高峰、チョオユー(標高8201㍍)。85歳でその山頂からスキーで滑り降りることを目標に、父の三浦雄一郎は5年前からトレーニングと準備を重ねていた。しかしその計画は今年になって頓挫した。チベット登山協会が、75歳以上の登山者に8000㍍峰への立ち入りを禁じたのである。
 このように、その国の内情で目的の山に登れなくなったり、遠征が延期されたりすることを「カントリーリスク」という。僕たちもこれまでの遠征で、いくつかカントリーリスクを経験していた。

 チベットのシシャパンマに登った2006年のこと。ネパールの首都カトマンズから陸路で国境を超え、遠征の手助けをしてくれるシェルパ族とともにシシャパンマのベースキャンプに入る予定であった。しかし、この年のネパールは政情が不安定で、王政に反対する共産主義党のマオイスト(毛沢東主義者)が商業活動を制限するデモを繰り返していた。これと競うように、政府も戒厳令を公布して商業活動を禁止する。これが交互にあるものだから、首都カトマンズの機能はマヒし、僕たちも長期間ホテルから出られなかった。
 それでも僕たちはまるで亡命者のように人目を忍び、夜明け前の空港からヘリコプターで国境の村まで飛んで遠征を決行したのだった。

 続いて、父が75歳だった08年のエベレスト遠征。この時はチベット側からの登山を計画していたが、この年の北京五輪の開幕が引き金となって民族問題が噴出し、中国政府は僕たちの遠征直前に外国人のチベット入域を禁止した。そこで僕たちは急きょネパール側からのルートに切り替え、新たに登山許可を申請し、すでに中国へ送っていた装備もいったん日本に戻してからネパールに転送してもらった。 

 このように、カントリーリスクは現実に起こりうるリスクである。それを承知していても、今回のように年齢制限という登山ルールの変更によって登れなくなるのは初めてだった。だが、それを最も残念に思っているはずの父は言うのである。「(年齢制限は)極めて人道的な判断かもしれない」と。そのうえで「それでは南米最高峰のアコンカグアに登って、スキーで滑るとしよう」とすぐさま目標を切り替えた。
 未練を引きずらず、何事にも前向きに取り組む。父はそういう人だ。この新たな目標に向かって、僕たちは現在、南米チリの高地でスキー合宿を張っている。

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