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富士に吹く風

2018年9月15日日経新聞夕刊に掲載されたものです。

 先日、友人たちと富士山へ行った。ただし登頂には至らず、富士南東の側火山である宝永山周辺を散策して帰ってきた。今回は20人を越える一行で、おのおのがこの日の登山のために都合をつけて集まったことを思えば、誠に残念な成りゆきだった。

 登頂断念の理由は風である。富士宮ルートの起点となる富士宮口五合目でバスを降りると、いきなり体を持っていかれそうな強風が吹きつけてきたのだ。
 予定では2日間の旅程を組んでいた。初日は九合目まで登って万年雪山荘に宿泊し、翌早朝に登頂してご来光をながめて下山するはずだった。しかし天気予報を確かめた僕は登山前から判断に迷っていた。五合目付近の風は秒速15㍍。翌日の山頂付近はこれが21㍍まで強まり、降雨も予想された。

 富士登山で警戒しなければいけないのが風である。この独立峰は、五合目でもう森林限界の標高を超えてしまい、そこからは風から身を隠す木立もほとんどない。秒速21㍍の風ということはときおり吹きつける突風はその倍の同40㍍に達すると見なければならない。秒速21㍍を時速に換算すると約75㌔、秒速40㍍は時速144㌔である。高速道路を100㌔で走る車が受ける風を思えば、それがいかに強いかわかるだろう。
 これほどの強風となると、斜面にいる登山者は立っているのも大変だ。転落の他に落石の恐れもある。富士山は溶岩でできた軽石が多く、こうした石がつぶてのように風で飛ばされたりする。

 寒さも怖い。旅程2日目の山頂付近は気温4度の予想。風速が1㍍増すごとに体感温度は1度ずつ低下するという説に従えば、秒速20㍍の風が吹きつづけたら体感温度はマイナス16度となる。雨も見過ごせない。通常の雨だけなら防水透湿性素材のウエアで十分だが、強風を伴った雨は衣服に染みこみやすく、体をぬらして体温を奪う。雨と風の組み合わせは夏季に低体温症を引き起こす最大の要因である。
 バスを降りた時、風は強いものの空は晴れていた。ありとあらゆる姿をみせた富士の高根を仰ぎながら、僕は考えた。初日のうちの九合目に着くことはできるだろう。でも翌日は?山頂に向かうことはもちろん、下りることもできなくなるかもしれない。結局、僕は登頂をあきらめ、そのむねを皆に伝えたのだった。

 人に親しまれ、年間30万人が登る富士山。だが、日本一の山を甘く見てはいけないのである。

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